劇団薔薇座の軌跡

 1977年(昭和52年)4月赤坂国際芸術家センターに於て、劇団薔薇座は、旗あげ公演を行ない、それ以後、劇団公演16回、アトリエ公演9回、提携公演8回、合同公演1回という活発な上演活動を続けている。
 しかし、野沢那智が劇団を結成し上演活動を始めたのは、じつは66年(昭和41年)7月(第一回公演ジャン・コクトー作「バッカス」)の昔にさかのぼるのである。72年7月第九回公演アルベール・カミュ作「戒厳令」で活動を中断するこの時期を第一次薔薇座と名づけよう。
 第一次・薔薇座のレパートリーは、フランス戯曲だけだった。ギリシャを祖とする西欧演劇直径のフランス劇に、焦点をしぼった舞台づくりだった。話し言葉のダイナミクス追究による内面的ドラマ形成が、第一次薔薇座の最大特色である。
 その伝統は、野沢那智がみずから編集した実習教科書「声と言葉」によって、第二次薔薇座にも脈々と受けつがれている。しかし、活動休止の雌伏期にも、リーダー野沢那智は、大きく成長をとげていった。内面的ドラマを舞台に表現しつくすには、言葉だけでなく肉体表現も必要であり、スタッフと役者との協力による空間表現も必須のものであるという総合的演劇観の持主に、彼は変貌しつつあった。
 ことに演劇空間が多様化しつつある今日、歌と踊りをもどんよくに表現手段にとりこむことを彼は望んだ。その意図はまず研究所カリキュラムに具現され、やがて第一次の禁欲的レパートリーに決別をつけ、ミュージカルをふくむ多様なレパートリーを擁して、その成果を世に問うこととなった。第二次薔薇座の誕生である。
 まず旗あげに、第一次のレパートリー、コクト-「円卓の騎士」を、赤坂国際芸術家センターという体育館式ホールで、ユニークな空間造形により上演したことは、第二次・薔薇座の性格を出発第一歩に示したものとして象徴的であった。ひきつづき、稽古場をアトリエ公演空間として解放し、やつぎばやに第一回アメリカのマレー・シスガル、第二回ロシア古典ドストエフスキ-とチェーホフ、第三回フランスのジャン・アヌイと、多彩に展開、さらにフランス喜劇の王者ジョルジュ・フェドーの代表作三本連続公演によって上演日数を3週間にも延ばし、ブロードウェイでヒットしたばかりの新作「ジェミニ」上演という豪華なレパートリーにより、アンチームなふれあい空間で、若さを爆発させる団員の熱演によって、熱烈なアトリエ・ファンを獲得することができた。
 本公演のほうももちろん、このアトリエのゆたかな前衛性に負けてはいない。ことに、雌伏の研究期間中に、野沢那智がそのドラマ性をわが国でも花開かせ得ると見抜いた英米ミュージカルの異色作「セレブレーション」「アップル・トゥリー」「地球よ止まれ、俺は降りたい」「ローマで起こった奇妙な出来事」「グリース」を次々と外部スタッフの貴重な協力も得て、劇団の総力をあげ果敢にその舞台化に挑んだのである。さらにその後、ブロードウェイでヒットしたシリアス・ドラマ「デストラップ(死のわな)」と「ベント(ねじまげられて)」の2作を俳優座劇場にかけて成功、ストレート:プレイの上演にも実積を築いた。
 81年6月ニハ【ママ】「ローマで起こった奇妙な出来事」を松竹との提携公演としてサンシャイン劇場で再演、82年5月ふたたび松竹との提携公演としてサンシャイン劇場で「グリース」を再演、10月には、初演以来の好評にこたえて「アップル・トゥリー」を俳優座劇場で再々演。こうして薔薇座は劇界に確固たる地位を築き、観客の新たな期待に応じうる劇団にまで成長したといえる。
 ことに上演中のブロードウェイ・ミュージカルの舞台をそっくりそのまま真似て、日本に直輸入しようとする興行資本のやりかたとはちがって、あくまで自主的な価値判断に基づく野沢那智のレパートリー選定には、強力な理解者もあらわれ、野沢演出、雪村いづみ主演「旅立て女たち」が、薔薇座
 【改行ママ】参加の異色公演として、81年度3月から9月まで原宿ラ・フォーレでロングラン、その後、郵便貯金ホールの再演に続いて全国各地で公演、さらに83年度芸術祭参加公演として、主演の雪村いづみが優秀賞を受賞したことは特筆に値する。
 そののち、劇団外部の役者や他企業との提携公演が増えるにつれて、劇団の体質はじょじょに変貌を遂げていった。そして、いい意味での〈ひらかれた劇団〉として、外部の才能といつでも協力しあえる体制が、自然にできあがった。85年5月サンシャイン劇場「グリース」82年12月シアター・アプル「飛べ!京浜ドラキュラ」85年3月本多劇場「覗きからくり遠眼鏡」85年7月博品館劇場「ベイビー」がその成果である。しかしその間に、第一次、第二次を通じてなお劇団にのこっていた「外界と絶縁して団結をかたくなに守る」という日本新劇団に共通の姿勢は、いつのまにか崩れてしまった。
 84年12月前進座劇場「ベント」再々演、85年1月労者会館「クライムズ・オブ・ハート」85年5月俳優座劇場「キング・オブ・ハーツ」の成果を最後のみのりとして、第二次薔薇座はその幕を閉じた。劇団活動を推進してきた玄田哲章、椎橋重、鈴木清信の三人をはじめ、主要メンバー十余名が劇団を去った。そして、残された者の大半は、80年以後に入団した研究生ばかり、しかもほぼ全員女性という異常事態が生じた。さすがの野沢那智もこのときばかりは劇団解散まで一時は覚悟したようである。
 しかし、80年代に同時進行していた劇団姿勢のオープン化と、この異常事態に勇敢にたちむかった若々しいウーマン・パワーが、難なくこの障害を突破した。85年12月新宿シアター・TOPSこけら落とし「踊れ艦隊のレディたち」を皮ぎりに、86年5月稽古場での久々のアトリエ公演に、イギリス現代作家アラン・エイクボーンの作「来られない夜に乾杯!」を薔薇座育ちの斉藤重紀が演出、8月博品館劇場では、好評による「艦隊のレデイ」再演、10月新宿シアター・モリエールこけら落とし「ミスター・シンデレラ」11月12月とつづけて、札幌と下北沢の本多劇場における野沢那智執念の戯曲「ベント」の第4回目上演という盛況ぶりである。
 第二次薔薇座の遺産は、こうして絶えることなく円満に第三次薔薇座に受けつがれたと評することができよう。戸田恵子、笹水綾子らの先輩を後輩の女性陣が、わずかに残った劇団の男性陣を叱咤[原文は手書きで修正され口へんに太]激励し、外部の才能をあたたかく迎えいれながら、もりたてていくという第三次薔薇座の輝かしい門途を、私は心から祝福する。
(米村晰)

Posted in ミュージカル, 日本の同時代演劇 | Leave a comment

改良俄は大阪、新聞俄は京都

伊藤友久『偲ぶ草 お芝居三代』(非売品[伊藤友久]、一九八二年)によれば、改良俄は大阪、新聞俄は京都だという。以下、国立劇場の久保田伸子との対談「新京極 読んだり聞いたり見たり」から引用する。

久保田 その後の常盤座、明治座というのは歌舞伎はあまりかからずに、曽我廼家一座とか楽天会なんかが掛かっていたんですね。
伊藤 ご承知のように曽我廼家が日露戦争で浪花座で旗上げしてから、五郎・十郎の曽我廼家劇が人気者になりました。又楽天会というのは俄の延長なんです。
久保田 そうするとこの俄は大阪のではなく京都の俄ですか。
伊藤 そうです。
久保田 京都の俄の話をお聞きしたいのですが。
伊藤 大虎座、朝日座、布袋座……。
久保田 明治座から見ますと新京極通りをへだてて反対側にある小屋ですね。
伊藤 そうです。大虎座も朝日座も俄と喜劇の小屋でした。大阪の俄は鶴屋団十郎、大和屋宝楽、大和屋小宝楽、鶴屋団九郎というふうに、あれはいわゆる改良俄というたんです。それで売り出したんですね。京都の方は新聞俄というんです。ということは当時、今でいうニュースの役割をしてすぐに舞台にかけたんです。
久保田 台本も何もなくて。口だて芝居のようにして……。<三七頁終わり>
伊藤 そう、ほとんど軽口の掛け合いの口だてでやったんでしょうな。それまでの俄といえば卑猥なものか、あるいは歌舞伎仕立の狂言をひっくりかえしたようなものばかりやっていたんです。
久保田 よくそれでまごつくんですが、信濃家尾半とか、_^東玉【とうぎょく】^_とかいう方がいますね。それが歌舞伎の外題で嵐尾半とか實川東玉とかって出てくるんです。
伊藤 それは当時の役者の名前だけを上につけて歌舞伎芝居をやったわけです。これは噺家芝居でもよくやったんですよ。仮りに文楽が片岡が好きなら片岡文楽とか……。それで京都の新聞俄は、たにし、新玉、団五郎、東玉、尾半、南玉、茶好、東ン貴、馬鹿八、こういう所が主力なんです。それから団治、これが後の初代天外なんです。京都の新聞俄は安く見られる、気楽に見られる、それに媚笑いがあったわけですね。それで大虎座、朝日座というのは大変な人気になった。ですから京都は喜劇のはしりなんですよ。
久保田 喜劇といえば大阪が本場という感じがあるんですけれどね。
伊藤 曽我廼家は大阪が発祥ですが、楽天会は恐らく京都が出発点やないかと思いますよ。それから飄々会も京都です。
久保田 喜楽会は?
伊藤 喜楽会は大阪かもわかりません。つまり俄もだんだんと演劇的にせないかないというので、喜劇になったのが桃李会という一座です。それが後に発展して一派が出来たのが楽天会です。<三八頁終わり>
久保田 次にもう少し下って通りをへだてて向い側の夷谷座の話をお伺いしましょうか。今のピカデリーですね。
伊藤 そうです。四条から三条に向かったつき当りです。ここは初めは女役者の芝居だったらしいですね。それで身振り芝居とか浄瑠璃身振りとか、それからだんだん女役者の歌舞伎というようになってきて二流芝居なんかもあったんですが、曽我廼家が出てから五郎十郎の芝居、それから飄々会。飄々会というのは岡嶋屋の嵐吉三郎の弟子で風岡之助という人が_^時田一瓢【ときたいっぴょう】^_、これが座頭で、曽我廼家の一座の泉虎(いずとら)、これが副座頭になって、それから末広狸、清水猛、中西瓢六というような人が主力です。私の親父もそこに関係して、伊藤千成という名前でこれは娘形をしておりましたけれど、立女形に清水猛というのがいたので、その上にはいけませんでした。夷谷座では五、六年常打していたんですよ。
久保田 座付みたいにしていたわけですね。
伊藤 そうです。ということは、楽天会があっちこっち行くことになり、曽我廼家が忙しいし、第三の喜劇団になったわけです。それで夷谷座の常打だったんです。
 それから喜楽会というのは田宮貞楽さんという人が北村_^九貞楽【くていらく】^_、_^吉富楽雁【よしとみらくがん】^_、宮村_^五貞楽【ごていらく】^_、千葉万楽、そういう人を集めて作ったんです。これは喜劇というよりむしろ社会劇に近い芝居です。
久保田 それがだんだん淡海さんみたいになっていくわけですか。<三九頁終わり>
伊藤 淡海劇は、江州音頭から喜劇に転向し、だんだんとよくなって曽我廼家十郎劇の残党——太郎、田村楽太、かもめ、登喜次、白石、弁慶、そういう人を集めて十年間くらいは大変な人気でした。ここも主力は夷谷座でしたが、夷谷座が映画になってからは京都座に来てたわけです。この淡海劇は昭和になって争議があって主力が出てしまって、その時に今でいうコメディアンの大竹_^保【たもつ】^_フォーリーズが入り込んで、『踊る弥次喜多』とか『ナンセンスレビュー弥次喜多』とかのまげものレビュー、まげものナンセンスをやってたんです。でも水に油でしたからすぐに淡海劇がつぶれて、淡海さん個人が家庭劇に入るということになるわけです。
久保田 そうかといって別に淡海劇が家庭劇の前身ということはないんですね。
伊藤 ええ、もう淡海さんだけです。それから扇雀さん、秀郎さん、珏蔵(後の璃珏)さん、福太郎さんの青年歌舞伎。大変評判がよくて、秀郎さんは背は低いが芸達者な人で、当時京都では_^松喜屋【まつきや】^_の片岡秀郎さんといわれて評判でした。私らも好きでずい分見に行きました。
 夷谷座には林長之助といって盲目の俳優がいたんです。これはそこひですが、きれいな目許をしていて、『朝顔日記』の深雪、『酒屋』のお園などを十八番にしてまして、花道を綱をたよりに出てくる。迫真の演技力で、僕らも熱狂したもんです。吉十郎さんといって、のちに日活初期のスターになった人——この間亡くなった吉十郎さんのお父さんですが——、その人がよく一緒に出てきました。<四〇頁終わり>

Posted in 日本近代演劇 | Leave a comment

大城立裕「七〇年代以降の沖縄演劇」「現代日本戯曲大系 月報10」(一九九七年九月)

 沖縄の文化史で、一九八〇年代は近代一〇〇年来の画期だと私は解している。一八七九年の琉球処分で、琉球王国から日本へ政治と文化を切り換えたが、その後の一〇〇年年間はおもに文化摩擦に由来する劣等感と戸惑いの時代であったといってよい。その運命的な歴史を脱けて、いま独自の文化的な方法と自信を、ある程度見つけだした、ということである。
 その助走は、一九七〇年代に文学の分野ではじまった。知念正真の戯曲「人類館」(一九七六。岸田戯曲賞)と、又吉栄喜の小説「ジョージが射殺した猪」(一九七七。九州芸術祭文学賞最優秀作)によって、それは果たされた。
 ここですこし沖縄の伝統演劇にふれたほうがよいと思う。古典劇としての組踊が一八世紀に様式を完成したが、それは宮廷芸能で、役者は貴族の子弟であった。琉球処分のあと大方の士族が食い詰めるなかで、もと組踊役者たちはその芸で口を糊することを企てて、巷に降りた。遊廓の近くに小屋掛けをし、そこでヤマトから流れてきた芸能の影響をも受けながら、新しい演劇の方法を模索した。
組踊は古代の言葉をも援用しながらの詩劇で、士族のみを観客にしたから、新しい時代を迎え庶民大衆を観客とする演劇をめざして、現代語の台詞を創るのに苦心惨憺したふしがある。その努力が沖縄芝居という形式を生み、今日すでに伝統となっている。沖縄芝居の時代になり世代が移っても、折々組踊を上演して技法が受け継がれたのは幸いであった。
 沖縄芝居の台詞まわしのなかに韻文の形を残しているのは、興味深い。それはよいが、(おそらくは同じ原因によって)数十年もプロットの脱皮を怠っているうちに、現代の写実精神のなかで生きている観客の鑑嵐に耐える作品が乏しくなった。それでもしぶとく生き延びてきたのは、それはそれとして、文化の生命力というものを思わせる。<一頁終わり>
 新劇運動では、戦後の一九五〇年代に琉球大学の演劇部OBが結成した演劇集団「創造」が目立った。その方向は軍事植民地体制への抵抗を表現することに傾いたが、創作劇を作るには時間がかかり、久しく欧米や日本の既成作品にたよった。
 沖縄新人演劇集団(略称「新集」)も、一九六〇年代の初頭に結成して土着的な創作劇をめざしたが、志を果たすにいたらなかった。
 沖縄芝居は戦火にも滅びることなく戦後いちはやく復興したけれども、現代の生活感覚におくれたために、映画、テレビに手もなく押されて衰えることになった。
 沖縄芝居の様式のなかでも、現代の鑑賞に耐える作品の試みが、かつて無かったわけではない。一九六〇年代初頭に、沖縄テレビ放送がテレビドラマをはじめたときに、拙作「思ゆらば」を皮切りに、幾人かの作家がいくつか出している。しかし、たとえば「思ゆらば」は喜劇だが、演出家も観客も、軍事植民地下の戦後的な被害者意識、悲劇感覚を脱けきっていなかったから、方法が引き継がれることはなかった。
 七〇年代は、二七年間の「異民族支配」のあと「日本復帰」をくぐって、喜劇が理解される時代になった。「人類館」一はタイムリーにそれに応えた。近代沖縄精神史を自己批判の笑いで固めた内容に加えて、台詞にウチナーヤマトグチ(方言訛りの共通語)を多用した、という画期的な新しさがあった。「創造」が製作した創作劇の第一弾である。
 一九八〇年に沖縄ジアンジアンの柿落としに拙作「さらば福州琉球館」を出したときに、沖縄芝居の新しい時代を迎えた。
 一九八二年にNHK沖縄局の復帰10周年記念事業の企画で、私が委嘱をうけ、六〇年代にテレビドラマで出した喜劇「思ゆらば」と「俺は_^筑登之【ちくど】^_」を合体させ舞台劇「世替りや世替りや」に仕立てて上演したのだが、六〇年代と違ってこんどは観客がすなおに喜劇に従いてくるようになった。琉球処分はかって悲劇的にのみ捉えられていたが、それを「復帰」という世替りにかさねて、自己批判の喜劇として見るだけの余裕が育ったようである。
 「人類館」とあわせて、自己を他者の眼で見る喜劇の意識が生まれた証を見ることができる。同時に、沖縄芝居と新劇を意識的に近づける可能性も見えてきた。一九八七年に幸喜良秀の企画で発足した沖縄芝居実験劇場は、沖縄芝居に新劇的内容を盛り込む方法を(多くは拙作を幸喜の演出で)発展させたが、第一回作品「世替りや世替りや」(一九八〇年作品を改訂)が東京で上演されて紀伊國屋<二頁終わり>演劇賞特別賞を受けたのは、方言劇の普遍化の可能性を示唆するところがある。
 方言文化が軍国主義のさなかには卑しめられたが、戦後は誇らしいものになった。が、皮肉にも方言は忘れられる速度をはやめ、観客も年寄りばかりになりそうな気配がある。沖縄芝居実験劇場などの努力で、若者や知識層の観客を育てつつはあるものの、楽観をゆるさない。
 沖縄芝居実験劇場や劇団「演」(代表・島正廣)が沖縄芝居のなかに新劇の方法を採り入れているのと対照的に、知念正真は「人類館」にひきつづき、新劇に沖縄芝居の素材を採り入れてきた。「コザ版どん底」「コザ版ゴドー」などがそれで、沖縄芝居の役者たちが客演で加わり、新劇プロットのなかでウチナーグチ(沖縄方言)をしゃべりまくっている光景は、壮観であった。
 多くの作家にとって、沖縄芝居に新劇的内容を盛り込むより、新劇のなかに沖縄芝居の素材を採り入れるのが容易であるらしく、幾人かが試みている。_^嶋津与志【しまつよし】^_は沖縄戦や戦後風景の表現に力を注ぎ、「ガマ(洞窟)」「アンマーたちの夏」が中央でも評価された。
 その傍で笑築過激団(代表・_^玉城【たまき】^_満)が、ヤングの素人をそろえてコントで始めたのをやがてドラマに昇華させ、ヤング的な新しい方言台詞で新式の沖縄喜劇を創造したのは、ひとつの文化史的な事件であったといってよい。日常的には方言を喋れない世代が方言へのあこがれを造形した苦悶の表現だといえようか。
さらに劇団「大地」(代表・_^照屋【てるや】^_京子)や劇団「衝波」(代表・照屋義彦)などの若い世代が、新劇手法のなかで、テーマや素材にときに「沖縄」を採り入れながら、さまざまな実験を試みている。-沖縄芝居の役者が高齢化していくなか で、幸喜良秀が若手舞踏家のなかから拾いあげている役者は、方言台詞をときには外国語のように修練しつつ努力しているが、全般的に作家、演出家、製作者、役者ともに新人の育ちが鈍いといってよい。
 そのような空気のなかで、国立組踊劇場誘致の運動が進められている。組踊は一九七二年の日本復帰を機に、国の無形文化財に指定されたが、地元の関係者の世論として、「能や文楽については、東京と大阪にそれぞれの国立劇場をもっているのに、これらと日本芸能の三本柱を構成するはずの琉球組踊のための専用劇場がないのは、その発展のために好ましくない」とあって、運動の趣旨に発展した。
 一九九二年にはじめられた地元の運動が、九七年に国の起ちあがりを招いた。<三頁終わり>
 この運動のなかでは、「劇場はプロの組踊役者を育てる場たるべし」ということと、「沖縄芝居公演やアジア全域との芸能交流の場をも兼ねたい」などという主張も述べられていて、めざしているのは伝統の活性化である。一九七〇年代以降には、沖縄演劇が新しい演劇を生みながら、伝統演劇と密接につながりたい、という方向へ向かっていることを思いあわせると、これから10年ほどがきわめて大切な時期だといえるだろう。<四頁終わり>

Posted in 日本近代演劇 | Leave a comment

前田司郎「愛が挟み撃ち」『文學界』2017年12月号

最初の1/3ぐらいは天才ですね。ほぼ言うことなしです。
そこからはしかし、息切れします。
具体的には、喫茶店の前での交通事故の場面、あそこは嘘くさいです。
そもそも、前田さんの書くことは作り物なのですが、その作り物を作り物と思わせない筆力が持ち味なのに、あそこではその筆力が十分発揮されていない。
セジュウィックが生きていて日本語を解したら、これこそ男同士の絆というだろう主題も、話が進むに従って嘘くさくなる。
最後の一文に至っては白けました。こんなオチを面白がって書いているようじゃ志が低い。

とはいえ、全体としては「良くできている」小説だと思います。それは有吉佐和子や山崎豊子や花登筐の小説がそうである、という意味でwell-madeだと思います。もちろん私はこの人たちの小説を愛しているので、皮肉ではありません。純文学が、作者とどこか根っこで繋がっており、それゆえに切実さを感じさせるものだとしたら、有吉らの小説は作品と作者の間の繋がりを潔く断ち切り、人間観察の鋭さ深さと、自分のでっち上げた作り事についての細部に至る想像力とによって、その作り事を読者に信じ込ませる。

今回、同じような才能を前田さんが持っていることがよくわかりました。以前私が『濡れた太陽』を褒めたのは、それが純文学的切実さを持っていたからですが、それ以前の彼の小説は全て寓話であり、寓話でしかない分、自分のでっち上げた作り事についての細部に至る想像力があれば成立するものでした。今回は(恐らくは本来の持ち味でなかった)切実さを捨てて、もう一度想像力だけで全てを作りあげようとして、しかしそれまでのように寓話の嘘くささに逃げず、「リアリティ」を人間観察の鋭さにおって獲得しようという新たな試みだったのだと思います。

そしてそれはかなり成功していると思います。繰り返しになりますが、最初の1/3は描写のうまさやちょっとした表現の気の利いたところによって、迫真さのある物語になっています。
夫の視点に切り替わるとやや精彩がなくなるのは、女性視点で書く方が得意だ、ってことがあるかもしれませんが(そこは太宰っぽいですね)、多分やる気がなくなったんだと思います。
そこから先は前述の通り、実に惜しい。前田さんは短編小説の方が向いている、とも言えるし、途中で手を抜く悪い癖を直さない限り、長編小説はおろか、今回のような中編小説も書けないという気がします(『濡れた太陽』は最後まで気合が入ってました)。
自分の才能に甘えて無駄遣いしているなあ、という感想は変わりません。あるいは、小説は所詮自分のフィールドではない、という思いがあるからでしょうか。

Posted in 未分類 | Leave a comment

Koji Tamaki Premium Symphonic Concert (2015年5月)

Hさん

先ほど聞いてきました。まず、とてもいい席で、大感激です。斜め前には安全地帯のメンバーたちが座っており、休憩時間はひっきりなしにファンが訪れて握手を求めてくるので、そのそばでお地蔵さん状態でしたが(笑)。お師匠さまに日比野が深くお礼を申していたとお伝えください。

玉置浩二の歌は、もちろん大変レベルが高いので、その先の話になるのですが、不満ももち、感心もしました。

最初にお断りしておかなくてはいけないのは、私がベストだと考えている玉置浩二は八〇年代のものだということです。数ある名曲のなかで、私がもっとも好きなのは「キ・ツ・イ」であり、それほどファンの間で人気があるわけではないこの曲が好きだということはとりもなおさず、私が「技巧派」好きで、難易度の高い曲を軽々と歌うときの玉置が好きだということがおわかりだと思います(笑)。

九十年代半ばぐらいから私は玉置の歌を聴かなくなりました。一般的にどう言われているか余り知らないのですが、私の耳には彼は自己模倣をしているだけで、どんどんスケールが小さくなり、つまらなくなっているように聞こえていました。

この十年ぐらいで玉置が「復活」していると感じるようになりました。かつての勢いは失われて戻ってこないけれど、年をとって味が出てきた、という何人かのヴォーカリストにある道筋を辿っているのだろうと漠然と予想していました。

そういう認識のもとで今日のコンサートに行かせていただいたわけです。

今日はベストではなかったはずです。声を張らずにマイクを近づけてささやく(昔でいうところのクルーナー唱法)のときも何ともいえない艶があるのが玉置の昔から変わらない特徴ですが、今日は今一つ艶がありませんでした。

もちろんそれだからといって試合を投げるようなことはしていません。しかし代わりに今日玉置は神経質なまでに自分の声をコントロールしながら歌っていました。もしかするとクラシックのオーケストラをバックに従えるといつもより神経質になる、ということもあるかもしれません。しかし私が好きな、クルーナー唱法から声を張り上げるモードへの「無意識のスイッチ」が今日は殆どありませんでした。スイッチするときは慎重に、計算してスイッチしていました。ノリとか破天荒さのようなものが消えていました。

やはり、玉置の歌は安全地帯のバンドの演奏にもっとも合っている、と感じました。クラシックのオーケストラは自分と同じだけの反射神経の鋭さを持っていない、ということを玉置はわかっており、その鈍さに合わせて自分も鈍くしているように思えました。

その一方で、アンコールで「夏の終わりのハーモニー」を半分アカペラで歌ったことに集約される玉置の率直さに心を打たれました。音響もそういう作り方をしていたと思うのですが、上記で指摘したような年を取ったゆえの「アラ」を、隠すのではなく、ありのまま出してそれを聞いてもらおう、という態度に潔さと自信を感じました。ああ、この人は歌がうまいだけではなく耳がよいだけに、色々悩んでいたのだろうが、もう開き直っているんだな、ということがよくわかる舞台でした。

というわけで、最後は泣いてしまいました。歌のうまさで評価していたはずですが、玉置の歌のうまさは記憶のなかで美化されたものを下回っており、しかしパフォーマーとしての玉置にあらためて惚れた、というところでしょうか。

あと東京文化会館の音はやはり好きではありません。全体に平板に聞こえ、音が溶け合うことも、個々の音が粒立つこともない中途半端な音響のように聞こえます。ひょっとしたらアレンジのせいかな、とも思いましたが(オーケストレーションは可もなく不可もなく、優秀だけど才能はない人のものだな、と感じました)、ブラームスの舞曲を第二部の最初でやったときも平板さは変わらなかったので、やはり会場のせいだと確信しました。

せっかく誘っていただいたのに、否定的言辞ばかり並べ立てているように見えるかもしれません。しかし全体としては大変楽しく、そして(何よりも重要なことに)歌や音響やステージに立つということを再考させてくれる、大変面白いものでした。Hさんに感謝していますし、今後も(できれば)懲りずにこのような機会があればお誘いください。ありがとうございました。

Posted in 音楽 | Leave a comment

状況劇場・創世と揺籃――紅テント劇場への道―

「『現代日本戯曲大系』月報6」(一九七一年一一月)

唐十郎

遍歴

昭和三十九年四月 於・新宿日立ホール

「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている

作・唐十郎 演出・骸馬二

終演間近、骸馬二行方不明となる。

昭和三十九年六月 於・厚生年金三階結婚式場

「渦巻きは壁の中をゆく」

作・唐十郎 演出・禿千里

昭和四十年二月 於・俳優座劇場

「錬夢術」

作・唐十郎 演出・禿千里

二月三日、初めての街頭劇、銀座数奇屋橋のプールに一時間浸っていた大久保鷹、凍死寸前、一警官に救出される。代表者、一晩拘留。

昭和四十年六月 於・日立ホール

「腰巻お仙・一部」

作・唐十郎 演出・禿千里

八月、禿千里、某婆と無理心中に及び、急死。

昭和四十年十二月 於・日仏会館ホール

遺恨公演「ジョン・シルバー」

作・唐十郎 演出・堂本正樹

稽古なかば、十一月二十日より十二月二日迄、堂本正樹氏遁走する。が、公演当日、かのスマイルをもって又も姿を見せる。

昭和四十一年五月 於・戸山ハイツ

路頭劇「腰巻お仙・一部」再演

昭和四十一年七月 於・日立ホール

「アリババ」

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、狼藉のチンピラ達と乱闘、観客六十人入り乱れて延々二時間つづく。渋沢

龍彦兄ィ、仲裁にて治まる。

昭和四十一年十月 於・戸山ハイツ灰神楽劇場

路頭劇「腰巻お仙・二部忘却篇」

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、四台のパトカーに監視さる。

昭和四十二年二月 於・新宿MJ喫茶・ビット・イン深夜館

新宿オペラNo.1「時夜無・銀髪風人」

作・唐十郎 演出・村尾国士

昭和四十二年五月 於・草月ホール

「時夜無・銀髪風人——新宿恋しや夜鳴き篇

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、麿赤児の浴びた風呂の水のため、劇場水びたしになる。

昭和四十二年八月於・新宿花園神社

「腰巻お仙――義理人情いろはにほへと篇」

作・演出・唐十郎

八月半ばの公演中、開演十分前より大雨台風に襲われ、観客ともどもテントを高台に移す。

 雨あがりの舗道の水たまりを小指で輪をかいて遊んでいる子供がレース越しのカーテンの向うに見える。子供は水たまりを鏡にして何回も何回も、執拗にくり返して今にも泣きださんばかりなのだが、それはまるで水たまりの自分の顔が歪んでしまうため、分の顔じゃないととまどい思っている風。何時間か時がすぎ子供が再びその水たまりのあった場所に戻った時、すでに水たまりは気ままなお天道様によって蒸発し跡形もない。子供はさっきまでの遊戯の場を踏みこえて行ってしまった。

 犯罪者が、おっかなびっくりそして微かにワクワクしながら犯行現場へと行為の確認に辿り着く如く、かつて芝居を上演した場所――戸山ヶ原のススキヶ原とか崩れ落ちた元駐留軍ブール、新宿花園神社の銀杏の木の下、湯島の白梅天神の太鼓橋の下にゆくと、私の足に口惜しみの河が流れ、苦々しい愛着が訪れるものです。

 私の肉体のそこここに口惜しみの河は流れ、遊戯する子供心にも似ておおらかである。

 昭和三十九年春から秋にかけて、私は上野万年町の物竿し台の見える、蜘蛛の巣張りの部屋のミカン箱の上で「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」「渦巻きは壁の中をゆく」を書いた。その頃私の愛用していたバッグは牛乳配達用の手さげ袋であって、その中にはいつもカレンダーをつなぎあわせた白紙に細い字でびっちりつまった戯曲原稿が入っており、こねくりあげた戯曲の秘法が自転車にゆられてカラカラと舞った。

 東北の米作り婆さんはその日の激しい労働を振りはらう如く夕日をながめて土手に股をこすりつけるというのだが、その頃、メンバーの役者どもは昼間土方仕事をやり、夜は夜でやけっぱちの振りはらい錬金術師であった。

 京の鴨の河原に棲息した河原乞食芸人は、そもそもはエタ・非人の類いであって昼なお暗い橋の下で清い水に流れる鮮血、皮なめしのぶったたく手のしびれ、腰のこりなどを振りはらう如く、白粉口紅ほどこし暗闇に佇むと、道ゆく_¨町の人々¨_はその余りの美しさに目をこらしたということです。

 このような現実原則の日常と痙攣する美しさは役者の肉体の中ではいつも隣り合わせで、役者の顔を並べて見るに泣優、骸優、禿優、渋優、恨優、痴優、心中優、遁優、憤優といった風にどこか病みつきの肉体を持っているものです。

 やけっぱちの錬金術師の寄り集まる稽古場は大学の演劇生から借りた地下室であって、稽古休みの時間に便所に入っていると天井から水入りのバケッとかホウキとが飛びこんだり、その頃_^流行【ハヤ】^_りのリンボーダンスをやったりで、気狂いじみたおおらかな遊戯と真っ昼間の土方仕事への振りはらいは、いつもすれすれのところにあった。

 やけっぱち錬金術師には、自分が驚ろかされる前に他人を驚ろかしてやろうという茶目っ気とその反応への執拗なにじり寄りがあって、台詞を覚えるのに山手線外廻りを七周したり、トイレにはいったきり何時間も出てこなかったり、歯科医院の前に女装してミドリのオバさんとして立ってみたりで、うごめき、澱む町のまっただ中に自らの恥をさらけだし、なお一層病みつき痛んでいた。

 新宿には、その頃、ところどころに申し訳なさそうに空地もあったりしたが、伊勢丹を少し四谷寄りに行ったところに日立レディスクラブホールというショールーム程の小さな劇場があって、五十人も入れば超満員。

 やけっぱち狂躁の錬金術師の日常と客を前にした時の半熟卵状の役者体は暗闇の袖の中に足を残し、舞台に出た顔は笑顔満面。

 時たま、イキの悪いフーテン風客のかけ声に舞台からまっしぐらにかけおり首根っこをとっつかまえてたちまちにしてレディスクラブホールは乱闘の場。乱闘のまっ只中で不動のヨガ行者の如き役者がいたが、彼はその後黙優として登場し、後にアンマとなった。

劇団のメンバーは無名であり、客はいかなる場に於いても常に無名である時、劇表現のもつ荒々しさは、より多くの葬り去られていった無名の者への愛と近親憎悪を相ともなってくる。

 厚生年金で「渦巻きは壁の中をゆく」を演ったのはカーテンシャッター一つ隔てた結婚式場の隣りであった。

白い壁の向うにほこりっぽい道がつづき、

ダリヤの花が咲いて

夏がまわる。

大きなむく犬が吠えると

イチジクの木から子供が散って夜が始まる

そんな遠い町がぽっかり沈んで、ここは、あれ以来雨です雨なんです。

そんな遠い町が昔、ここにあったことは確かなのですが、

今は馬の胃袋のような空から

雨がびじょびじょ

びじょびじょ降ってくる

(「渦巻きは壁の中をゆく」一場ラストより一部)

三十人程の客を前にローソクの炎に照らされた老人が現われた時、すでに隣りの宴会はたけなわ、ビールビンのカチャンカチャンぶつかりあう音、「おめでとう、おめでとう」といい合う嬌声の中を、堕胎児への鎮魂と一組の無名の男女の愛のきしみは進行し、又もや口惜しみの錬金術師どもの振りはらいは、何か目に見えぬものにけしかけられた如き形相を呈する。

 こんな風にして設備の不完全なホールで芝居を演ることがいっも町の中へ町の中へと私をかりたてていたに違いない。

 町の中へ町の中へ、無名の者を優しく染める愛の錬金術師は、相も変わらず無名であった。

 独白

はじめてペンをとったボクの不可能な願いは、偉大なる気狂い女に理解されるような芝居を書きたいということでシタ。

アノ女の偉大さは、その脳漿が夜のみでなく昼間中夢みつづけるというところにアリマス、が、その夢は、悲惨な記憶かも知れない。

無意味なリフレインかもしれマセン。

タダ、アノ女の偉大さはそれにもかかわらず、昼日中、ビルの窓を逆さ斜めに突き抜け、地下鉄のレールに頬をつけて、頭骸骨を砕かれることなく眠りつづけられるということなのデショウ。

夢を追いかけ、夢に追いかけられるアノ女は、夢の破片を自動記述するボクなどより、ずっとヴァイタリティがアルンダ。ボクやアナタタチの想像的感覚のπr2程もアノ女はいつももっているノデス。アノ女は想像のタコなんです。どこかジャンヌ・マリに似たーー

(昭和三十九年四月「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」パンフレットより)

 ロング・ロング・アゴー

不思議な小屋が浅草にある。

僕がその前に立っていたのは、去年の暮れのどん曇りの夕方だった。

映画街から離れ、屋台店の密集したなかに一見、江戸時代の芝居小屋のような構えで、そいつは居た。

入口に三十円の字が見えたので、こりゃ安いとは思ったが、ストリップではなし、エロ映画でもなし、(只、看板の浮世絵の女の腰巻がひっかかる)、思い切って、僕はまっかなのれんをくぐった。そして――鐵人形達が僕の前にズラリと並んだ。片手のない者、性器の腐った者――頭のない物――みんな片輪者である。

客は僕の外に誰もいない。

この群れを通り抜けなければ出口は現われない。

僕は一人の女のざくろのように割れて、熱んだ乳房に、何年もたまりつづけた埃りを拭いていると、その向うの暗がりで誰かが笑った。

木男がそこに居るらしい。あの黒い静かな笑い……。

ここにはお前の死んだ弟もいる。

ここにはお前に凌辱された老母もいる。

ここにはお前の探している’60年の死者もいる。

天井のシートが風にハタハタと鳴った。

――そうか。お前は、こんな衛生博覧会の倉庫のような日本的暗闇で僕を待っていたのか……

僕は乳房の埃りをなおも拭いながら云う。きっと、チョウチン持ちのスメルジャコフも伴れて来ているんだろう。いや、奴は今テンカンで寝ている。さて、お前にはどこを病ませようか。言語中枢不能はどうかな?

結構だね。僕は乳房の埃りを拭いつづけながら云う。舌と耳とはやろう。その代り、僕に目をくれ。ランボーがアフリカで捨てたあの千里眼をー―。

そりゃどうかな?木男の幾条もの手はそろそろ僕を捕えた。

そして今。僕はここで、人形の群れに混り、毎夕、小屋の呼込みをやっている。この芝居の批評もこちらへ送って下さい。(昭和三十九年四月「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」プログラムより)

戸山ヶ原での「腰巻お仙・忘却篇」の上演にたどりつくまで、新宿日立レディスクラブホール、日仏会館、俳優座ホール、はたまた厚生年金の結婚式場の隣りといった風に芝居上演場所を転々としたのですが、いよいよ町の中に明されるべく出かけてゆく時、その町には必ず自警団なる自己閉鎖集団が待ちうけ、私たちの芝居は町から町へとさすらう運命になった。

 当時の「腰巻お仙・忘却篇」の観劇評を堂本正樹は低俗不浄による劇の発見と評しておりますが、芝居進行中、やけっぱち錬金術師共の役者の肉体は寒風に刺され、客はといえばてんでに客どうし酒をくみかわし、芝居終演と同時に役者一同うちそろいて地ベたに土下座の挨拶、またしても役者、観客入りみだれてのまわし飲み、ススキヶ原の月は冴えわたっていた。

 私たちの芝居の行なわれる場は、ゆるやかな日常茶飯事、人々の染まる猥雑なる雑踏の地に、“これより悲しみの地に入る”なる呪語をもって聖地創造におもむく感であった。

 さて、この頃私は西荻の女子大のアパートから阿佐谷天沼の一軒家に移っておりました。

 李礼仙と共に全国を金粉ショーダンサーをして稼いだ金で借りうけたこの一軒家は、ささやかな庭と縁側のある家で、垣根にはさんしょの木とか柿の木とかが植わっており、昼ともなるとどこからともなく集ってくる役者で狭い家の中はごったがえし、近くの子供の遊び場を兼ねた公園で体操やら発声訓練とかやったものです。

 数人の役者が夜の巷をほっつき歩き、日が昇ると稽古場の縁側にたどりつき病んでいる肉体を表現へとおもむかせた。

 新宿西口の飲み屋横丁の焼きとり屋で一杯飲んでいる時、突如入団を申しこんだ全学連上がりの役者は、今や優しきミドリのオバさんに熱中し、稽古二時間前に縁側にたどりつきミドリの上衣、黄色い旗、ズック靴の手入れを入念にやり、薄ピンクのマニキュアを爪にほどこし、オバケツケマツ毛をつけ、彼の表情は、あんなにも優しいミドリのオバさんは女に出来得るはずがないとでもいいたげに偏見で一杯なのである。

 その頃うす汚れた手さげかばんの中にいつも青い表紙の小さなノートに詩をかきっけているヒゲの役者がおりましたが、いつの日か、全学連上がりのミドリのオバサンと手に手をとって雑踏の中で信号待ちをしている姿を見たことがあります。

 未だ上野万年町に高速道路が出来る前のごみごみした町中を二人の男女の老人が、走りゆく車と信号機の前でおろおろしている情景を見たことがありますが、今になってこうした若い二人がおろおろしあうとは彼らにとって一体何事であったのだろう。

 夜ともなればかのヒゲ詩人は、はにかみに満ちて自分の詩を朗読し、ミドリのオバサンは詩吟を口ずさみ、又あるものは泥酔の果て台所の包丁でふすまを切り、又あるものは駅前のオデン屋台に走った。

 各々の役者が、どこからやってきて、どこにいて、何をやろうとしているのかに思いをめぐらす時、他人とかかわる時、江戸の介錯人の如き優しき世話人であろうとするものです。

 技術としてのミドリのオバサンが失敗した時など、化粧、衣裳をほどこした町を走らせ、動物愛護病院前で台詞をいわせたりヒゲ詩人には一ヶ月間便所掃除のみ言いつけたりで、痛みをともなった恥と共に役者同志は成長するようであった。

 それから二回の夏が通りすぎ、キャバレーのショー巡りから帰ってくると、私達は、貧乏生活にたたられてか、絶対に損をしない興行——総予算五千円を元手に、文化長身のド真ん中、戸山ハイツのススキヶ原に向った。

 公園課の課長が幸いに、日曜画家であったため、善意で、その場を貸してくれたのは良かったが、文化長屋の教育委員の差し金で、派出所の警官とかパトカーが四台現われ、近所の児童教育防衛隊までが、石を投げる。その少年の姿が、いつか見た映画のパルチザン少年隊とダブって、私たちには、悲しかった。だが、文化長屋も、夜になると何故か弱かった。時こそ晩秋のススキ原。寒さとテレビ恋しさに、住民は寝床に帰ってゆき、ヘッドライトを消したパトカー四台だけが向うの丘の上で息をひそめている。

 横尾忠則のポスター「腰巻お仙・忘却篇」の夜目にも鮮やかなピンクの桃を頼りに、三十人程の客人が一升ビン片手に、辻から辻と、その風の棲家にたどりつき、それを見定めて、照明隊はペダルをこぐ。照明隊とは、二台の自転車で、そのペダルを思いきりこぐとほのかな電気が、役者の顔をてらす。ヒャラリヒャラリコという効果音楽にしても、電池の小さなテープレコーダーであるために、その音のかぼそさといったら――。横の公衆便所の水の落ちる音にすべてをさらわれるってな具合。だが、丘の向うから_¨ゴザ¨_を小脇にやってくる李礼仙の夜鷹に、「ヤイヤイ! てめェーら!」とどやしつけられる時、三十人の客人は、そこで、初めて、その夜路のルージュの中に、腰巻お仙の初期症状をうすら寒き風と共に見つけたにちがいない。

 卒塔婆の林立する悲しみの地よりムックリ起き上ったゴザを抱えた紅いルージュ、それが腰巻お仙であることは決定論というもの。それ迄の私の作品には影ばかりただようて、なかなか現われなかったその人。

 もう、町の中にとびだしてゆく用意はできた。

 新宿花園神社に目をつけて、何が何でもそこに紅いテントを建てようと狙ってみたのはいいものの、コネがなかなかつかめず(私は、この時程、コネという言葉の怨めしき力を感じたことはなかった)、突然、訪問することにした。すると、社務所には、白髪の老婆と、宮司のお年寄りがお茶を飲んでいて、セールスマンか何かと私を思い込み、上等なお茶を出してくれた。伝説に依れば、二百年前のこの神社では、芝居小屋がかかってそれはそれは大変な江戸文化の衛生ポイントであったらしいですな、とか何とかいってるうちに、すぐにでもそこに建てられそうな話がまとまって、この約束大丈夫かなと思いながら、そのことを仲間に伝えた。

 都市の裏から這いよるべき紅いのテントはそこで注文するや、私は、毎朝、駅前喫茶店の「アランフェス」という店で、毎日一時間(これは八時より九時半。これ以上、そこに居ると、セールスマンの打ち合わせがそこでくりひろげられるために、創作不可能)、その一時間のうちに、埋めるべき原稿用紙のノルマは、四百字詰めで三十枚であった。書きとばす時間が速くて、喫茶店を出てからも、ペンが手のひらの上をすべってゆくこともあった。そして十時半から、劇団のメンバーが集まり、近所に気をつかっての猛稽古。

 二日後、花園神社の社務所から、電話が、三百米離れた雑貨屋に入った。かけつけてハイハイというや、案の定、総代会が、疑っているから、あの約束は駄目にするという。あっ、こういうことを懸念していたのだ。駄目ですか、じゃ又会う日迄と電話を切るわけにもゆかず、一寸待って下さいな、御老体。すぐ、そちらへ行って、我らの演劇がいかに、御老体をも魅きつけずにはおかないかということをお見せしますから、結論を急がないで下さいと私はいった。そこで、今、すぐ総代会に見せるわけにはゆかんから、一週間後に、神社のビルの二階にあるホールで披露されたしということになり、まだ出来上っていない「腰巻お仙・義理人情いろはにほへと篇」を、腰巻では元も子もなくすだろうといぶかって、月笛お仙という名に一応なおして、ネクタイしめて(メンバーの中には、この時、生れて初めてネクタイをつけた者が大部分であったらしい)、神社ホールにかけつけた。だが、ホールに入って、ドーラン塗りたくったはいいものの、来ているべき総代会の老体は、一人も居らず、私が、初めてここの社務所に話を持っていった時のあの宮司とお婆さんにその子供たちが、まるでバザーの余興でも観るつもりで、待っていた。「総代会の人たちは?」と私が宮司に聞くと、「おそいね」としか彼はいわぬし、コンニャク談義ではラチが明かぬ。いくら、ここで、「腰巻お仙」を、この場限りに上品に捏造してみたところで、くたびれもうけではないか。

 こんな私の心配をよそに、待ちくたびれた役者群は、喜々として「腰巻お仙」上品版を演じはじめた。だが、いつもは、このホール、お花の会とか、着物の展示会につかわれる素寒貧な空間。もともと、テントの中で演じられるべき「腰巻お仙」には、いかにも窮屈で、いくら荒事をやってのけても、只、無暗やたらに暴れているだけ。観劇の婦女子や老人は、顔を見合わせ、白け返って、お茶でも飲みましょうか、お爺さんというのであった。結局、誰も居なくなり、私は、まだ暴れている役者群に「もう、いいよ」といった。

 果してどうなることか。ドーランのまだ落し忘れている顔が、再びネクタイを締め、何卒よろしく、と社務所に伺いを立ててから、電車に乗って帰ったのは、まだ真昼間。一体、出来るのだろうか出来ないのではといった不安が、何日もつづいて、出来ないことはない。許可されなくとも、紅いテントをおっ立ててしまおうと思いつめて一週間。もう夏に入り込んでいた。社務所に電話をかけて「総代会は何といってました?」と聞きただすと、宮司は「何のこってす?」というのである。

 これ程、雲をつかむような詮索は無意味と、もう電話をすることもなく、真夏の新宿公演に向った。風が吹き荒れ、埃りが舞って、紅いの肌がひるがえると、私は、そこに演劇を始めてから、やっと一つ手に入れることの出来た様式の何たるかを知った。私は今迄何者でもなかった。これからは、この紅い化け物を盾に、否、この紅い生き物に肉化した無名の私として町を征こう。

(状況劇場主宰)

Posted in 未分類 | Leave a comment

東宝第二演劇部はいつ廃止されたか?

西堂行人『[証言]日本のアングラ 演劇革命の旗手たち』は、佐藤信(劇作家・演出家・俳優座養成所第十四期・一九六五年卒)の発言として以下のように記録している。

N——俳優座養成所に三年間いて、卒業した時にどういう方向を考えていましたか。劇団を創ろうということは?

佐藤——まず、卒業する一年前に行こうと思っていた東宝第二演劇部というのがなくなってしまった。(東宝には)第一演劇部と第二演劇部があって、第一は芝居、第二は日劇のレビューやミュージック・ホールの演出をやる。僕はその第二演劇部に行くものだと将来の目標をしっかりと決めていた。でも、なくなっちゃったんです。……それで観世栄夫さんに「俺、行くとこないんですけど」って言ったら、「それじゃあ青芸に来る?」「じゃあ行きます」って。

『[証言]日本のアングラ 演劇革命の旗手たち』(二〇一五年、作品社)一一八—一一九頁

しかしこれは正しくない。佐藤が俳優養成所を卒業した前年だと、一九六四年ということになるが、以下に示すように、一九五八年に設立された東宝第二演劇部が廃止されたのは一九六九年である。

昭和33年1958

東宝演芸場、OSミュージックホールなどを所管)に分割。本社に劇場部を新設。関西支社の部制を廃止。

4月4日 本社総務部より人事部を独立。本社経理部より管財部を独立。演劇を第一演劇(東京宝塚劇場、芸術座を所管)と第二演劇(日本劇場第2劇場、NDT、

昭和44年1969

3月1日 文芸部を廃止、「製作総務室」「映画企画部」を新設。演劇部の第一演劇企画課、第一演劇制作課、第二演劇企画制作課、第二演劇演芸課を廃止、「制作室」「企画課」「制作課」「東宝現代劇」を新設。「財務部」を新設。調査室を廃止、「情報調査室」を新設。管財部を廃止、「不動産経営部」を新設。映画興行業務部を「映画興行部」と改称。事業・開発部を「事業部」(現・映像事業部)と改称。東宝会館、日劇会館を廃止。

『東宝75年のあゆみ ビジュアルで綴る3/4世紀』編纂委員会・東宝株式会社総務部『東宝75年のあゆみ 1932-2007 資料編』(東宝、二〇一〇年)

佐藤は一九七四年三月二日〜四月二十三日日劇ミュージックホール『春に舞う妖精たち』を演出したが、その際インタビューアー岬圭一に答えて、以下のように答えたことが上演パンフレットに掲載されている。

佐藤信 卒業の時、東宝に入ろうか青芸に入ろうか迷いました。

——東宝は、どの劇場ですか?

佐藤信 第二演劇部ですから日劇ミュージックホール、あるいは日劇です。でも東宝は会社員になることでしょ。ネクタイいやでね、そこで青芸の研究生になりました。

インタビューアー岬圭一「佐藤信 大いに語る」日劇ミュージックホール『春に舞う妖精たち』上演パンフレット

聞き書きの相手が誤って記憶していることはよくあることなので、それを訂正できなかったのは取材者である西堂の落ち度だ。

西堂は佐藤の発言を聞いて、日劇ミュージックホール『春に舞う妖精たち』上演パンフレットにあたるべきだったか? もちろんそんなことはない。けれども第二演劇部がなくなっても日劇やミュージック・ホールのレヴューがなくなったわけではないのだから、青芸を選んだ理由としてはおかしい、というごく単純な推論ができなかったのは批判されるべきである。

なお『東宝五十年史』には「一九五八年四月四日付の職制改革によって演劇部は第一演劇部と第二演劇部に分割された」(四七一頁)とある。また「演劇部を第一演劇(東京宝塚劇場、芸術座を所管)と第二演劇(日本劇場、日劇ミュージックホール、日劇ダンシングチーム、東宝演芸場、OSミュージックホール等を所管)とに区分したことであった」(二一九頁)という記述もある。おそらく同年二月に日本劇場で第一回ウェスタンカーニバルが開幕し大ヒットしたこともあって、演劇部の業務が増え、「演劇」と「芸能」の制作を切り離すという判断がなされたのだろう。

これもまた、知る必要はないことだ。だが、一九六六年九月に新しい帝国劇場の開場を控えていた東宝が、一九六四年時点で演劇部を再統合するには余程の理由がないといけない、ということも思い至るべきではなかったか。

Posted in 日本の同時代演劇 | Leave a comment

談志は志ん朝を評価していたか

談志は志ん朝を評価していたか
談志が世間の評価と異なり志ん朝をうまいとは思っていなかったのは、落語を多少知っている人間にとってはごく当たり前のことだと考えていた。

だがツィッターでそう呟いたら反論をいただいたので、あらためてそのことを説明してみようと思う。

松本尚久(現・和田尚久)編『落語を聴かなくても人生は生きられる』(ちくま文庫)所収の拙論「金馬・正蔵はなぜセコと言われたか—昭和戦後期落語についての一考察」の最後1/3は実は談志論になっている。

矢野誠一や小沢昭一にならって、落語のうまさの基準の一方の極に「語り」を置き、もう一方の極に「描写」(=「リアリズム」「写実」)をおいて考えたとき、六代目三遊亭圓生や五代目立川談志らが「描写」に重きを置いたために、「語り」だけに傾注した三代目三遊亭金馬・八代目林家正蔵はセコと言われるようになった、というのが拙論の趣旨である。

その際、ハラルト・ヴァインリッヒに依拠して<はなし>=<緊張>と<かたり>=<緊張緩和>という二つの発話態度を区別した坂部恵(『かたりー物語の文法』)にならい、昭和戦後期落語においては、圓生や談志といった<はなし>派は、矢野が指摘する「落語の文学化」を行い、リアリズム演劇のように入信の演技で人物を描写してみせたが、志ん生は彼ら<はなし>派と、金馬や正蔵といった<かたり>派の間に立って、<かたり>つつ<はなし>をする、すなわち、緊張と緩和のあいだを往き来する、多くの落語家が無意識に実践してきたやり方で通した、ということを述べた。

息子の志ん朝は父親のような「正統な落語」をめざし、<はなし>と<かたり>の往還運動をする演じかたを完成させたのだが、その志ん朝を談志はこう批判する。

ある時、テレビで志ん朝の落語やってましたが、落語リアリティから言ったら、もう部分部分は人物造形も何も下手くそでね。柳好のように歌い上げるリズムだけで演っているつもりならともかく、当人は内容勝負の作品派、現代の円生、いや、ひょっとすら文楽のつもりなんでしょう。それがあんな不調和なリズムで演られたら、「どうなんだい、これは」って思った。人間観の深みがあるわけでもない、それでも若い頃はスピードもあったしリズムも良くて、客を酔わせ、会場を熱気に叩き込むことが出来たでしょう。その勢いがなくなっていた。『人生、成り行き 談志一代記』(2008年)

たしかに昔は「唄い調子」と呼ばれた柳好のような<かたり>派の一人として談志は志ん朝のことを評価していた。79年東横ホールで「品川心中」を演じた談志は枕でその直前に志ん朝が演じた「愛宕山」を激賞している。ところが今の志ん朝は<かたり>派に徹し切れておらず、圓生のような<はなし>派に色目を使ってる、それは中途半端で「下手くそ」だ、というのが談志の言わんとしていることだろう。志ん朝にとって<はなし>と<かたり>の往還運動は<かたり>一辺倒からの進歩だったが、談志にとってそれは退化だった。

ここから先は拙論を引用してみる。

 円生の芸を受け継ぎ、円生を超えた(と考えていた)自分の「演技」志向から一線を置いていた志ん朝の態度に談志が苛立ちを感じていたこともうかがわれるが、<かたり>つつ<はなし>をする、緊張と緩和のあいだを往き来する「正統な」落語一般に談志の批判の矛先は向けられていたとみるほうが自然である。  というのも、談志は志ん朝が目指していた「うまい」芸が行き着く先を見抜いていたからだ。<かたり>と<はなし>を往き来しながら、筋の緊密な構成が生み出す息苦しさを語り手の個性が和らげる、そんなバランスのとれた「うまい」芸をできるようになった芸人はいつか面白くなくなる。なぜならそれは技術による達成だからであり、人間心理への深い洞察なしに成立するからである。「金馬・正蔵はなぜセコと言われたか—昭和戦後期落語についての一考察」

 そのような(技術的な)「うまさ」を談志はうまさだとは思っていなかった。この技巧において「うまい」噺家として談志が挙げるのは八代目桂文治である。

[八代目桂文治は]おれたちが入った頃はもう面白くも巧くも何ともない、ヘンな声と抑揚でやっていました。あれはテクニックだけでやっていると、つまり「巧い」を極めるやり方で行って、技術的に完成してしまうと、人間、やりようがなくなっちゃうんでしょうな。ヘンな方向へ行っちゃう。『人生、成り行き 談志一代記』

つまり、談志は志ん朝の行く末に八代目桂文治を重ねていたのだ。

今回ツィッターで議論の焦点の一つになったのは、談志が繰り返し語っている、志ん朝に「志ん生になれよ」と襲名を薦めた、という逸話の部分。志ん朝から「兄さん、口上言ってくれるかい」と頼まれて談志は「もっと上手くなれよ」と答えた、と書いている(『談志絶倒昭和落語家伝』『名跡問答』)し、音源も残っている(「立川談志の人物話 落語家 古今亭志ん朝」)。この音源では「そのかわりもう少しうまくなれよ、と言った」とまず言い放ち、自分でも「すごいねこれ」と注釈をつけたうえで「下手だと言っているんじゃない、もっとうまくならなきゃあかん、といっているんです」と言い直している。

私などは音源での「もう少しうまくなれよ」という物言いを聴いただけでも、談志は最初から志ん朝のことをうまいと思っていなかったのだな、と思えるのだが、そうではない、今も「うまい」と思っているけれど「もっと」うまくなれ、と言っているだけだろう、と反論されれば、そうではない、とは言い切れない。

この音源では続いて談志は自分の発言の真意として「彼の持つ技芸のやり方の限界を超えろ、と言っていたのかもしれない」と述べている。『談志絶倒昭和落語家伝』でも、志ん朝が死んだのはよかったのか残念だったのかわからない、というのは「志ん朝からは、”あれ以上のものがでてこなかったかもしれない”という思いが源になって」いるという意味ではよかったが、「ことによると、”作品派”から、志ん生の血を継いだ、訳のわからないような部分が出てきたような気もする」ので残念だ、と述べている。

志ん朝の「限界」を見きわめている自分は、落語が、落語という制度が、誰よりもわかっている。談志はこの一連の発言のときそう思っていただろう。だからこそ、<はなし>と<かたり>の往還運動をする演じかたを完成させた志ん朝が余計に中途半端に、「下手くそ」に見えた。晩年「イリュージョン」を言い出すまで、談志にとって(「本当の」)うまさの基準はあくまでも「描写」であり、<はなし>の出来映えだった。「ことによると、”作品派”から、志ん生の血を継いだ、訳のわからないような部分が出てきたような気もする」という発言は、自らのイリュージョン理論に照らして再度志ん朝への評価を変える準備はあったことの証拠だ。そういう点で談志は自分に正直で、公平な人だった。ライバル意識や嫉妬が談志の志ん朝評価を曇らせた、というような俗説を私はとらない。正直な気持ちで、志ん朝には「限界」があるし、「もっとうまくなれる」と思っていたのだろう。志ん朝の時ならぬ死でそれも適わなくなった。だから、談志の最終的な評価は「うまくなる可能性はあったが、うまくはない」というものだったと私は考える。

Posted in 落語 | 1 Comment

ダンス・ミュージカルとしての『ホワイト・クリスマス』

『ホワイト・クリスマス』White Christmas(1954)は、とくに日本ではあまり評価されていないように思える。

ブロードウェイの人気スターで、作詞家・作曲家コンビでもあるフィル(ダニー・ケイ)とボブ(ビング・クロスビー)が、フロリダで姉妹芸を演じているベティ(ローズマリー・クルーニー)とジュディ(ヴェラ=エレン)と知り合い、四人でヴァーモント州パインツリーに雪とスキーを期待して出かける。あいにく雪は降っておらず、四人が泊まったホテルは閑散としていたが、そのホテル、コロンビア・インのオーナーは第二次世界大戦で従軍したボブとフィルの上官、ウェイバリー少将(ディーン・ジャガー)だった。軍に復帰したいと願うが年齢のためにかなえられず、失意に沈む元上官のために、二人は所属していた第151分隊の10周年の同窓会を少将に内緒で企画する。

というその物語は、とくにつまらないわけでも、無理があるわけでもないが、起伏に欠け、結末では二組のカップルが成立する予想通りの展開で物足りなさを感じる。

そもそも、アーヴィン・バーリングの戦前のヒット曲で、『スイング・ホテル』Holiday Inn(1942)でも主題歌となった「ホワイト・クリスマス」を再度取り上げるという構想が最初にあっての作品だから、面白く作るのは難しい。しかも、フレッド・アステアとビング・クロスビーのコンビでアーヴィン・バーリングの楽曲を歌わせる、という『スイング・ホテル』には、すでに二匹目のドジョウとして『ブルー・スカイ』Blue Skies(1946)がある。二番煎じならぬ三番煎じの作品への出演を打診されたアステアは断り、かわりに『ホワイト・クリスマス』ではダニー・ケイがクロスビーと組むことになった。アステアの判断は賢明だったと思う。

それでも合衆国ではそれなりの評価を受けているのは、クロスビーの歌声と佇まいを変わらずに愛し続ける人々がいるからであり、また自分の国を守る軍隊への敬愛の情が生き続けているからだろう。

クロスビーの魅力は、その凡庸さにある。「普通に」ハンサム、「普通に」いい声、「普通に」温厚(そう)な性格。その「普通さ」が特別な価値を持っているように感じられたのは、当時の合衆国でヨーロッパ系白人が社会の中枢を占めていたからだ。強烈な個性や他を圧倒する才能、あるいは血のにじみ出るような努力の跡がなくても、生来備わった美質だけでクロスビーのような金髪で青い目の人間はスターになれた。いやむしろ個性や才能や努力の跡が放つ熱のようなものは、物事の価値や基準がすでに決められており、挑戦されることのない社会では敬遠された。育ちがよさそうで、はげしく自己主張をすることのないクロスビーのような人が、正しく美しいとされた。社会が大きく変化し白人中心主義が鋭く批判されるようになった現在でも、クロスビーやその同類の人たちを——「古き良き時代」へのノスタルジア込みで——愛する観客はいる。

厳しいが人情味のある上官のためにかつての部下たちが勢揃いする最後の場面は、戦争が終わって十年足らず、復員軍人がそこら中にいた公開当時はもちろんのこと、現在でも一定の訴求力はあるはずだ。『愛と青春の旅だち』An Officer and a Gentleman(1982)をはじめ「鬼教官もの」はハリウッド映画ではお馴染みのものだが、『ホワイト・クリスマス』では、クロスビー、ケイ、クルーニー、ヴェラ=エレンという主役四人の歌とダンスを見せることに焦点が当てられていることもあって、その主題は掘り下げられていない。だが「鬼教官もの」の骨組みしかないのは、作り手が技術的に未熟だからというよりむしろ、肉付けせずとも観客は軍隊への敬愛の情を膨らませるはず、と作り手がしたたかに計算をしているからなのだ。一般に、作り手と観客とが一つの文脈を共有しているとき、作り手の「思わせぶり」な身振りは、はっきりと明言されたときよりも観客に強烈な印象を残す。黙説法は、受け手が「省略された部分」について自らの想像を膨らませるからこそ効果を発揮する。軍服姿の軍人を街中で見かけると、周囲の人が敬意と感謝のこもった目を向ける、そういう社会だからこそ通じる「さらりと流す」表現として同窓会までの実現が描かれる。

だが現代の日本人にとって、『ホワイト・クリスマス』を多少なりとも見られるものにしているこの二つの要素は、想像はできても実感をもって感じられるものではない。クロスビーはスターとしてのオーラに欠ける二流の俳優に過ぎないし、軍隊への敬愛の情がなく、勝利を収めた自分たちの軍隊が帰還するのを歓呼を持って迎えた経験もない私たちには、感動的なエピソードになるはずのサプライズ同窓会の計画が淡々と語られることに軽く失望を覚える。しかもクロスビーとクルーニー(ジョージ・クルーニーの伯母で、51年には”Come On-a My House”をビルボードチャート1位にした)の歌はともかく、踊りは冴えない。ケイもその愛嬌はわかるが、全盛期ミュージカル映画に出演する俳優としては歌も踊りも魅力がない。

そしてアーヴィン・バーリングのヒット曲をずらりと並べた「歌もの」ミュージカル映画としては物足りないのは、合衆国の観客にとっても同様だろう。同じぐらい物語が薄くても、『世紀の楽団』Alexander’s Ragtime Band(1938)とか、『ホワイト・クリスマス』と同年に公開された『ショウほど素敵な商売はない』There’s No Business Like Show Business(1954)のほうが、バーリングの楽曲を楽しめる。どちらにもエセル・マーマンが出ているし。

だがこの映画には別の魅力がある。玄人好みのするダンスを踊ったヴェラ=エレンを出演させ、ジョン・ブラシアというダンスの名手をパートナーとして競演させているところだ。

これは言葉で説明するより、見てもらったほうが早い。ヴェラ=エレンは「マンディ」”Mandy”で最初クロスビーとケイとを従えて踊るが、二人の実力に合わせて優雅だがそれほど運動能力の高さを示す必要のないダンスを踊る。だが途中でブラシアが出てくると俄然本領を発揮し、先ほどまでとは違うキビキビとした動きを見せる。

次の「コレオグラフィー」”Choreography”というナンバーでもヴェラ=エレンはケイと踊るが、垂直方向への驚異的な跳躍を見せて途中から登場するブラシアのほうが明らかに目立っている。(なお、YouTubeのコメントに、このナンバーがマーサ・グラハムのモダンダンスのパロディで、セットはグラハム「アパラチアの春」Appalachian Springを模したものだ、という説明があった。ミニマリストの簡素な舞台は似ていなくもないし、「コレオグラフィー」という題名も、また群舞の女性たちが着ている濃い灰色の貫頭衣も、モダンダンスのパロディのような気もするが、「アパラチアの春」のアーロン・コープランドの素朴なメロディと、「コレオグラフィー」の金管楽器の派手な音が特色のジャズとは似ても似つかない。)

だが二人のダンサーとしての実力に真に圧倒されるのは、「エイブラハム」でのヴェラ=エレンとブラシアのデュエットだ(それまでの二つのナンバーと違って、クロスビーもケイもまったく絡まない)。これほど鬼気迫る、緊張感溢れるミュージカル映画のデュエットは、ほかに『踊るニュウ・ヨーク』Broadway Melody of 1940(1940)でのフレッド・アステアとエレノア・パウエルのダンス——とりわけ「ジュークボックス・ダンス」——ぐらいしかないのではないだろうか。

ちなみに若き日のジョージ・チャキリスもクルーニーが歌う「つれない恋」”Love You Didn’t Do Right By Me”で踊る四人のダンサーの一人として登場するが、とくにそのダンスの巧さに印象づけられるということはない。

「歌もの」ミュージカル映画として見ると、歌を吹き替えているヴェラ=エレンはこの作品には相応しくない。そもそもヴェラ=エレンの尋常ではないダンスの巧さを各映画スタジオは扱いかねていたところがあり、それもあって彼女は早期に引退したのではないかと思うのだが、『ホワイト・クリスマス』では物語とナンバーの統合を全く無視して、物語には全く無関係のジョン・ブラシアと踊らせることで、彼女の見せ場を作った。それが『カサブランカ』の名匠マイケル・カーティスの指金であったかどうかは寡聞にして知らない。だが正しい判断であったことは間違いがないだろう。

Posted in ミュージカル | Leave a comment

コルトレーンのアルバム『インナーマン』について

John Coltrane “My Favorite Things” の録音は数十あると思われる。

そのうちベストテイクが何か、についてはジャズファンの中でも議論が分かれる。コルトレーンがソプラノ・サックスに持ち替えて冒頭で一オクターブ高く吹く1963年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの録音がよいというのは妥当な意見の一つだろう。マッコイ・ターナーのピアノ、ジミー・ギャリソンのベースは変わらないが、ドラムはいつものエルヴィン・ジョーンズに変わってロイ・ヘインズが叩いている。エリック・ドルフィーが離れ、1965年の『アセンション』で完全にフリージャズへと切り替わるつかの間の、少しポップに戻った頃の演奏だ。

とはいえ、コルトレーン・カルテットのキモはエルヴィン・ジョーンズのドラムだとかたく信じている私は、どちらかといえば(CDだと同じ一枚に収録されている)1965年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの録音のほうが好きだ。冒頭の強烈なシンバル四連発はスピーカーで聴いていてもぐっとくる。この録音はインターネットのリンクでは示せないので、かわりにあまり話題にされず、ほとんどなかったことになっているライブ・イン・ジャパンの57分の演奏を。メロディラインを解体するフリージャズの骨法は1965年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの録音ではあまり目立たないが、こちらでは最初から徹底している。中盤以降になってメロディが出てくるまで、なぜこの演奏に「マイ・フェイバリット・シングス」と名がついているのかすらわからないぐらいだ。

もっとも最初に私が聞いたテイクはアルバム『インナーマン』に収録された、バードランドの1962年のライブ録音だった。大学生のときCDを買って以来愛聴盤だったが、いつの間にか紛失してしまった(人に貸してしまって戻ってこなかったのかもしれない)。刷り込みとは恐ろしいもので、その後上記を含むさまざまな演奏を聞いても、『インナーマン』版のほうがよいように思えてしまう。記憶の中で美化されていくから尚更だ。

『インナーマン』のCDはその後なかなか見かけず、中古市場でたまにあっても高くて手が出ないでいたのだが、この数日思い立ってデジタル化した音源を求めて探し回り、調べてみて知らないことがいくつかわかった。まず、『インナーマン』Inner Manとは、テイチクが日本盤LPを1977年にを出したときにつけた名前である。Vee Jay Recordsの音源で海賊版に近いものだ、という噂は聞いてことがあったが、まさか日本だけ別の名前とは。合衆国ではLive at Birdland 1962で出ているようだ。ただし、私が今回デジタル音源を入手したAmazon.comではAt Birdland 1962とわずかに異なる名前になっている。しかもColtraneで検索をかけてもこのアルバムは出てこない。

また『インナーマン』とLive at Birdland 1962とは曲順が違う。ここで説明されているようにCD『インナーマン』の曲順は、

  1. My Favorite Things
  2. Body and Soul
  3. Mr. P.C.
  4. Miles’ Model

だが、Live at Birdland 1962では以下のように前半と後半が入れ替わっている。

  1. Mr. P.C
  2. Miles’ Model
  3. My Favorite Things
  4. Body and Soul

だがこれはおそらくLPのときのA面とB面を交換したのであって、二枚は同一のものである。しかも売れ線の”My Favorite Things”を一曲目に持ってくるのは意図的な選択であって間違いではないはずだ。

それからやっかいなことに、ふつうLive at Birdlandといえば、これはインパルスから1963年に出たアルバムで、CDだと6曲入りでなかでも“Afro Blue”が有名だが、“My Favorite Things”は入っていない。おそらくテイチクが『インナーマン』とつけたのはこの有名なアルバムと紛らわしいからではないか。なおLive at Birdland 1962の説明では、オリジナルCDはル・ジャズからLive At Birdland 1963として出た、とあるがこの点については調べてもこれ以上のことはわからなかった。日本盤CDとどちらが先なのだろうか。

Posted in ジャズ | Comments closed