「沖映演劇」が人気上昇するにつれて、五つか六つぐらい残っていた劇団の経営は苦しさを増すばかりだった。那覇市内で唯一の公演の場を失い、実力の上位の劇団でなければ「沖映演劇」には出してもらえず、実力のある劇団でも大伸座、ときわ座、俳優座、劇団与座など「沖映演劇」劇団丸ごとに長期出演したため、自分の劇団の統率と機能を失い、事実上は解散に近い状態に追い込まれ、劇団によってはバラバラに解体される結果になったのもある。そうした弱体化した劇団は、小人数で地方の公民館などで「沖縄芝居」を上演する役者もいるが、一九六〇年代に比べるとはなはだ精彩のないものになっており、かつて劇団や俳優自身がいやがっていた「ユシー役者」(田舎役者)や「ウチュキィ芝居」に転落したものもいる。(註・「ウチュキィ芝居」とは、わずかな衣装、道具をふろしき=ウチュキィ=に包んで、地方の公民館などで転々と芝居らしきものを上演すること)。
このような「沖縄芝居」の急速な転落が目立ったのは、一九六〇年_原文ママ_(昭和四五年)ごろからである。
「沖縄芝居」を上演したくても、上演する劇場は、那覇ばかりか地方の劇場も映画館に転身し、公民館は村営の教育施設となった今は、無料公演なら許可するが、劇団の有料公演には公民館ホールは使えなくなっており、このごろは映画館で短期公演をする場合もあるが、その映画館も経営不振からパチンコ店やスーパーになったり閉鎖しているのもある。
「沖映演劇」が好調な興業を続けている間に、取り残された劇団は気息えんえん、息も絶え絶えの状態であった。乙姫劇団を除く大伸座、ときわ座、俳優座、劇団与座などの有力劇団は、丸ごと「沖映演劇」へ抱えられているため、座長以下各劇団員が「沖映演劇」に出演ということになってはいるが、実力のない俳優は役がつかず「沖映演劇」出演の四劇団は、劇団とは名ばかりで一般公演はできないほど無力化していた。
「沖映演劇」に出演しないときのこれらの劇団は、ときどき自主公演として那覇劇場、あけぼの劇場、琉球新報ホール、沖縄タイムスホールで、三日から五日間ぐらいの短期公演をしていた。この短期公演では何とか観客をつないでいたが、以前のように二、三週間も一カ月も興業するには劇場がなく、那覇劇場は「でいご座」が長期公演をしていたがふるわず「沖映演劇」に客足をとられ、いずれも苦しい状態であった。
嘉手川重喜「戦後の〝うちなー芝居〟〈11〉:“沖映演劇”の影で」。『琉球新報』、一九八一年六月二日第十二面。



嘉手川重喜「沖縄演劇百年〝戦後のうちなー芝居〟〈12〉俳優協会を立て直す」
苦境に立たされた「沖縄芝居」を、どうにかして盛り返し、復興したいと願う俳優たちが中心になって、文化人や報道人にも呼びかけて「沖縄俳優協会」の立て直しを図った。「沖縄俳優協会」は一九四七年(昭和二十二)、伊良波尹吉、平良良勝、玉城盛義、島袋光裕、宮城能造、比嘉盛義ら、戦前の俳優たちを中心に結成されたが、この団体は「沖縄芝居」の興隆よりも、劇団どうしの引き抜き防止を図る目的で結成されているようなものだった。
これは結局泣かず_原文ママ_飛ばずでその目的の中にある「演劇の向上」も看板倒れとなり「有名無実」になっていた。この「沖縄俳優協会」を発展的に解消させ、俳優たちの下から盛り上がる力で新しい「沖縄俳優協会」に更生させ、文字どおり「演劇の向上」を目標に、一九七三年(昭和四十八)五月に結成、渡嘉敷守章会長を中心に大宜見小太郎、真喜志康忠を副会長にスタート。同年九月、沖縄俳優協会結成記念第一回公演を那覇市民会館大ホールで打ち出した。出しものは、史劇「護佐丸と阿麻和利」を、沖縄俳優協会総出演で那覇市民会館大ホールで上演、好調のスタートに見えたが、その後の「沖縄芝居」を盛り上げるには力が弱かった。
これまでの各劇団の経過をたどると一九六九年(昭和四十四)四月、大宜見小太郎は那覇劇場で「大宜見小太郎芸道生活四十周年記念公演」と銘打って、外間朝貴作「山ゆりの里」、大宜見小太郎作「米をつくる家」を上演、宮城能造は芝居をやめて舞踊師匠となり「宮城流創流記念公演」で歌劇「中城情話」「薬師堂」を琉球新報ホールで上演している。
一九七〇年(昭和四十五)九月、伊良波晃は那覇市民会館大ホールで「伊良波晃芸歴二十五周年公演」を妹伊良波冴子と共演、父・伊良波尹吉作歌劇「奥山の牡丹」、「仲里節の由来記」を上演しているがあまり振るわなかった。
嘉手川重喜「沖縄演劇百年〝戦後のうちなー芝居〟〈12〉:俳優協会を立て直す」。『琉球新報』、一九八一年六月三日第十二面。