二代目曾我廼家五郎を襲名 “親父は懐かしい”後見には総支配人の大磯

こちらの記事も喜利彦山人氏(twitter: @kirihiko_)のご教示によるもの。ありがたく思う。

初代曾我廼家五郎ゆいて三年その持ち味をようやく身につけて二代目曾我廼家五郎の襲命【ママ】披露公演は三越劇場で華々しく開幕した
楽屋裏の五郎丈、なかなか張り切つて座員廿六名の頭目らしい貫禄を示している
今度はあくまで親父の摸倣でした、家族連れの健全な笑ひを與へて楽しんでもらおうという趣向です」
と語りだした、やつぱり先代五郎の面影がほうふつとしている、襲名の感想をとえば
「そうですやつぱりこうなつてみると親父はなつかしいです、私は六つの時、親父のもとへ養子に行つたんですがそれから四十二才まで文字通り叱られ通しで役らしい役なんかつかせられませんでした、昭和十七年に意見の衝突がありましてこの劇團を離れ、熱海で“チヨチヨ”座を作り昨年まで演出にあたつておりました。先代五郎が病氣になつた時にかはりに文藝賞を私が貰ひに行つた、帰つてくると危篤状態だつたその時に“お前舞台に出よ、そして俺の後を継げ”といわれ今日のような結果になつた、しかしがんこ一点ばりでなくどこか俺の後継にするんだという温情がその中に流れています、座員の人もみなよく協力していますからやりよいですよ」
ユーモアまじりに彼もまたせめて今ごろまで親父が生きていてくれたらと感想をもらしながら襲名興行にふさわしい親父への眞心を表わした
「親父の思い出ですつて…親父の執筆しただけでも千二、三百位あります、セリフだけ変えたら何とかわたし一代ぐらいは十分仕事ができます、わたしは一度今日こそ親父を殺してやらうと思つたことがある、それは大阪の歌舞伎座でけい古のときでした、山を登る動作、氣分がでない、長い道を何度も何度もくり返した、十六回目には歩行さえ困難になつた、これでだめだつたら…、さすがに親父も全部が山に登つてゆくようだ、親父を囲んで全員でこのときばかりは泣いた、だが親父は十六才のとき中村三五郎【ママ】の弟子入りして七十二才までよく藝に生きたと感謝している、わたしなんかまだまだこれからです、だからよき先生と指導者を得て、ぼちぼちと新しいものをやりたい、それに後見人、総支配人の大磯がいますので心強いです」と五郎はしゆんじゆんと語るのだつた、「せいぜい二代目五郎のため盡力し、曾我廼家の傳統を生かしたい」と後継人の大磯は激励した
しかし二代目五郎自身の最後に語るように決して経済的に楽なものでなく、苦労も続くでしようがわれわれは曾我廼家の傳統に生きる覺悟ですと強い決意の程を示す

『アサヒ芸能新聞』一九五〇年(昭和二十五)五月十六日第十四面

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二代目をめぐる醜争“本家はこちらでござる”。東西二人出来た曾我廼家五郎

以下の記事は喜利彦山人氏(twitter: @kirihiko_)のご教示によった。多謝。

堺市に生まれ、昭和二十三年十月七十二歳でこの世を去るまで四十八年辛苦に辛苦を重ね、五郎劇という独自の藝風を開拓した曾我廼家五郎は千三百册の自作脚本を書き自ら演出し主演したというまれに見る天才的エネルギッシュな藝人だつた
地元の大衆から「仁輪加」芝居でもてはやされ、文藝賞まで授けられ、喜劇王とまでうたわれた曾我廼家五郎が逝いて二年有余、彼の特異な舞台に長い間親しんで來た大衆がその死をおしんだのはついこの間のことのように記憶に新しいが、たまたま二代目襲名をめぐる東西二組のみにくい爭いが大きな話題をよんでいる、彼の名跡を誰が継ぐかは、今直ちに断定はし難いが、二人出來上つてしまつた東西の五郎をめぐるみにくい爭いの眞相は、今また多くの話題を呼んでいる
西方大阪では五郎夫人和田秀子が名跡保存と旧弟子泉虎、小治郎、弁天、秀蝶らのすすめで四月五日大手前会館で二代目曾我廼家五郎襲名披露公演と発足すれば、これまたやつぎばやに東方東京でも甥の蝶太郎が後釜にと故人四十年の女房役大磯が後押につき、東宝社長川口三郎氏らの後援で三越劇場にて「本家はこつちでござる」と襲名披露公演と銘打つて出るという、東西いずれが眞の二代目の本流を継承さるべきなのか、その名跡をあずかる夫人和田秀子こと二代目曾我廼家五郎に聞けば
「五郎が亡くなりましてから五郎劇の再建にと微力ではありますが、 P・T・Aとか各團体の援助で細々と各職場團体を巡業してましたが、なんとかして劇場に出たいとその念願を捨てる事ができませんでした
それは死んだ五郎の遺業【ママ】に対する私共の出來る最大のはなむけであり、義務だと旧弟子のすすめもあり、府の方たちの御後援もいただいて一時私自身で僭越ながら二代目を継いでゆく事にしました
これはかりの地位で、藝の達者で世間樣からもこれなら二代目に適当だと自他共に認められた人が出れば、私はよろんで、今すぐにでも、その人に自分の地位をゆずるのでございます、ただ、五郎の本流の所在を明らかにするめあての襲名なのでございますが、その名跡をあずかつている私をそこのけに、東京で二代目を名乘つた甥の蝶太郎の問題が、ここまで表面化したのでは、私も默つている事もできませんから法律沙汰にしても解決しなければ、五郎の名誉のためにもたえられないしゆう聞です」
とはつきりと決意の程を示した
どこか女丈夫的な動さがあり、声も自然に固かつた
「甥の蝶太郎は以前から同座していたのですが、五郎から“お前は藝能界から足を洗つた方が身のためだ”といわれ十三年前ですが、お金を出してもらつて熱海に旅館を経営し、その間五郎が死ぬ間際まで一座【ママ】も顏を出したこともなければ、一本の手紙をくれた事のない人なのです、それが突然新聞で五郎の危篤を知つて当地までやつて來たのですが、その時はもう声も出せない重体ではあるし遺言は誰にもする事が出來ないで、息を引取つたのでございます、死後、再三手紙でうるさく
「五郎の後を継がせてくれ私は熱海で決して芝居を忘却していたのではない、グループを作つて演技の研究をしたりチヨチヨ座を結成して本格的な舞台にも出たりコソコソ勉強していました、だんだん五郎の名前も人々から薄らいでゆくいま五郎劇再建のために早く名のつて出なければ手おくれです、といつてきました。そのときでも私は蝶太郎を信じることができなかつたのですが、もし本当にお前にやる意志があるなら藝はまだまだ未熟なのだからこつちに帰えつて一緒に勉強し、これなら二代目五郎に恥しくないと人樣から認められたら二代目五郎として世間にも出られる」
といつていましたのですがそれをも聞かないで五郎の名声を出しに檜舞台に立ちいまでに【ママ】勝手に二代目と自称して大磯を証拠物件に公演しているのに相違ないのです、私は蝶太郎で名乘つて出るなら脚本も借【ママ】しもするし、よろこんで援助もしたいのですよ、だけどこの二代目五郎となると問題は個人的なものでなくなりますからね
と語つた
「若し合流してくれと言つて來たらどうしますか?」
「私は反對です、私は勝手に二代目と名乘つて出るような人とは合流はしない、また合流したとしてもうまく経営してゆく事は出來ないでしよう」
そばに座つていた後見人の弁天も
「師の名跡を壊されないように奧さんを保護していくつもり」
と氣のせいか興奮しているようだつた
古い封建的藝道の因襲をあくまでも固持するお家大事的考え、大阪方と東京の藝に對する自由な見方、いわゆる五郎劇の眞價は名前のなかにあるのではなく、継承さるべきはその喜劇の演劇的在り方の中にあるというような見解。新、旧両派の入り乱れた対立か、問題はその中に隱されているのではなかろうか?
『アサヒ芸能新聞』一九五〇年(昭和二十五)六月七日第十六面関西版

『アサヒ芸能新聞』一九五〇年(昭和二十五)六月七日第十六面関西版

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菊田一夫戯曲選集・月報

菊田一夫戯曲選集
月報・第一集

はじめに
利倉幸一
 この第一集には「花咲く港」が収められている。これは、菊田一夫の傑作の一つであり、画期的な作品であるとともに、日本の近代戯曲史にとっても画期的な作品と言える。
 「花咲く港」が書かれたのは、言わば日本の異常な時代であったが、その時代のA級劇場の帝劇に、僅かにその数年前まで浅草のしがないレヴュー小屋の台本書きであった青年が登場したのだ。これは、相当に飛躍的な出来事であった筈だ。しかし、その菊田一夫の登場は後になって顧みると、特記すべきことであるにも拘らず、そのように受け取られなかった。こういう例はこれまでの菊田一夫の歴史にはいくつも挙げられる。東宝演劇部の経営にしても、芸術座興行の確立にしても、豊かな夢の予想される帝劇の建設にしても。
 やゝ大袈裟な表現のようだが、歌舞伎興行などは別として、昭和後期の大衆演劇と言われる興行の歴史は、菊田一夫が引張ってきたとも言えるのだ。それには革新的なとか、前衛的なとか、勇ましい表現ははまらないかも知れないが、実質的には、派手にアドバルーンを揚げるよりも、着実な成果を収めているのだ。一歩一歩、しっかりした歩調。
 「花咲く港」は、芝居を作る内と、芝居を見る外の、両側の人たちをより幅広くより近くさせたという点だけでも、憶えられていてい作品だと思うのだが、そういう見かたがとかく忘れ勝ちになっているのも亦、菊田一夫のさりげない歩調を示すものである。菊田一夫は(いやな文句だが)実力者なのだ。自分のやることに理論づけもしなければ、弁明など無論やるわけがない。黙って書き、黙って演出してきた。
 これらの作品の、そのあたらせた波紋を考えると、その時のうねりはあるいは大きくはなかったかも知れないが、長く長く、今日にまで広がっているのに気づくのである。
 菊田一夫はそういう作家である。

菊田一夫・劇作略譜
(1)
 昭和五年十二月一日、浅草の玉木座が新装成って開場した。サトウ・ハチロー氏の命名になる劇団ブペ・ダンサント(踊る人形)が出演したが、十日替りの、その第二回公演に「阿呆疑士迷々伝」なる忠臣蔵の愉快なパロディと、音楽劇「メリー・クリスマス」が出て、俄然大当り。「迷々伝」の主な出演者は柳田貞一(吉良)榎本健一(大星)二村定一(力弥・大高源吾)北村猛夫(内匠頭)竹久千枝子(お軽—後の千恵子)という面々であった。――この「迷々伝」と「メリー・クリスマス」が菊田氏の、初めて劇団から正式に註文をうけて執筆した脚本の処女作であったという。
 この処女作の大ヒットをきっかけとして、同氏のいわゆる“爆笑喜劇”の旺盛な製作が、(一頁終了)玉木座その他の浅草の劇場を舞台として始まり、以後六、七年に及んでいる。昭和六年、玉木座の初春公演に出た榎本健一主演の「倭漢ジゴマ」(サトウ・ハチロー作)も実は菊田氏の作。舞台に共同便所を持ち出して、追いつ追われつの探偵と泥棒が、用を便じながらそこでバッタリ顔を見合す、双方動けない状態のままで、探偵が御用御用とさけぶ場面などがあって見物を笑倒させた。偶々小林一三翁も見物にみえて、その奇想天外にはさすがの翁も驚嘆したという。
 併し玉木座での菊田爆笑劇最大の当りは、やはり榎本健一・孫悟空の「西遊記」だったであろう。これは公演中、開館前になると、入場客の列がえんえん伝法院の塀の前に並び、それが浅草区役所の辺りにまでつらなった。エノケン氏がやがて玉木座から引抜かれて表通りのオペラ館へ、さらに松竹座の舞台へと進出して行ったのち、この時の大当りが素因だったと云えよう。
 昭和六年夏、エノケン氏のプペ脱退に先んじて玉木座を去った菊田氏は、その後、木内末吉氏経営の金竜館に移り、また再び玉木座に復帰したりしたが、その頃、藤原釜足、サトウ・ロクローのコンビに書いた「スモール・ホテル」など、爆笑ものでない、いわゆる小市民喜劇の佳作であった。小市民喜劇といえば、この本山だった新宿のムーラン・ルージュにも、菊田氏は招かれて、ほんの小期間(三カ月)だが、第一次の劇団が解散したあと、第二次ムーランを組織したこと(昭和七年夏)がある。が、結局また浅草に戻ってオペラ館(ヤパン・モカル)、玉木座……そして昭和八年の夏には、常盤座・笑の王国の文芸部に落着いた――
 笑の王国は、その年の春四月に、徳川夢声、古川緑波、渡辺篤、大辻司郎ら映画、漫談畑の喜劇人が三益愛子、清川虹子、滝花久子らの女優を加えて旗上げした劇団。劇団名は古川緑波が佐々木邦著のユーモア小説集「笑の天地」から思いついて命名したものと云われるが、その緑波自身は昭和十年七月、この劇団と分れて単独に一座を組み、東宝企下の有楽座に出演。菊川氏らやがて、招かれてその立作者となっている。
 以下は——菊田氏が右の常盤座から東宝に移籍した、昭和十一年秋以後の、主な劇作活動のメモである。浅草での、いわゆる爆笑劇作家時代を菊田氏の劇作第一期と仮りにすれば、この昭和十一年代から終戦後・初期までの間は、けだしこの第二期といってもよい。
 昭和十一年(1936)
 浅草・常盤座の笑の王国にサトゥ・ハチロー原作「青春五人男」「純情一座」「僕の東京地図」、獅子文六原作の「金色青春譜」オリジナルもの「春に興ずむ」「桑名の殿様」などを書く。
 十月、株式会社東京宝塚劇場(現東宝)に入社。有楽座・古川緑波一座に「ギャング河内山宗俊」(十一月)「歌ふ金色夜叉」(十二月)を書く。
 昭和十二年(1937)
 有楽座・緑波一座に二月「楽天公子」(獅子文六原作)五月「研辰道中記」(木村錦花原作)八月「メール・ブルウ」九月「丸の内オペラ」十月「ロッパ若し戦はば」を書く。「若し戦はば」は同劇団初の爆笑的戦争喜劇として大ヒットをした。(日華事変はこの年の七月に始まっている。)
 昭和十三年(1938)
 二月「海軍のロッパ」四月「喧嘩親爺」七月一弥次喜多お化け大会」八月「活動のロッパ」など、何れも快調な緑波一座が有楽に上演。十月「当世五人男」これは村上浪六原作ものの脚色で、簑助(現三津五郎)、もしは(現勘三郎)、夏川静江らの第一次東宝劇団が有楽座に上演した。
 昭和十四年(1939)
 四月「ロッパ従軍記」八月「ロッパの愛染かつら」(川口松太郎原作)「マリウス」十一月「陣中だより」「清水次郎長」などを相次いで有楽座・緑波一座に書く。マルセル・パニョルの原戯曲を、珍しく赤毛のまま十一景にアレンジした「マリウス」でロッパがセザ(二頁終了)ールを好演した。
 昭和十五年(1940)
 佳作「ロッパと兵隊」(本集の「下駄分隊」)が有楽座一月に出る。ほかに四月「東京温泉」(獅子文六原作)五月「ロッパの蛇姫様」(川口松太郎原作)九月「幡随院長兵衛」「雛妓」(堤千代原作)が緑波一座に、八月「彦左と二人太助」が金語楼劇団に書かれた。
 昭和十六年(1941)
 一月「ロッパと開拓者」四月「髭のある天使」七月「上海のロッパ」十一月「あさくさの子供」(長谷健原作)「ちよんまげ分隊長」(九州山原案)など、何れも有楽座・緑波一座の戦時下にふさわしい話題作となる。なかんずく脚色物ながら詩情とヒューマニズムにあふれた「あさくさの子供」が芥川賞作品のよき劇化として好評を博した。(十二月八日に太平洋戦争始まる)
 昭和十七年(1942)
 一月「我が家の幸福」四月「若桜散りぬ」についで七月に佳篇「道修町」九月に「スラバヤの太鼓」が有楽座・緑波一座に、五月「マレーの虎」が同・榎本健一一座に書かれている。(もっとも「道修町」は五月の大阪・北野劇場が初演)――この昭和十七、八年、菊田氏の中間演劇的現代劇の佳篇はせきを切った如くに創作され、まことに壮観といってよいさまを呈している。
 昭和十八年(1943)
 三月、名篇「花咲く港」が緑波一座新劇人の合同公演により帝劇に出る。そのほか、一月「交換船」四月「父と大学生」五月「バランガ」七月「長崎」が有楽・緑波一座に、一月「桑港から帰った女」が新橋演舞場・井上正夫、水谷八重子一座に、六月「今年の歌」九月「わが町」(織田作之助原作)が東劇・井上演劇道場に、九月「虹の翼」十月「都会の船」十一月「運河」(片岡鉄兵原作)が有楽座乃至帝劇の第二次東宝劇団に、上演されている。量的にもまことに多作の年であり、移動演劇隊の一幕物「掌」その他もまたこの年に書かれた。第二次東宝劇団というのは小夜福子、岡謙二らを中心に、戦時中の圧力で解散させられた新協の永田靖、伊達信、高橋豊子らを主力メンバーとした劇団。
 昭和十九年(1944)
 二月「雁来紅の女」が東劇・井上演劇道場に出る。次いで「今日菊」(丹羽文雄原作)が第二次東宝劇団により有楽・三月に初日をあけようとする直前、決戦非常措置による命令で主要都市の大劇場演劇は、三月以降興行まかりならぬとなった。待合、飲食店などと芝居をいっしょくたにした高級劇場戦時閉鎖令である。が、この中でも菊川氏は、七月「田舎の花嫁」八月「信子」(獅子文六原作)「結婚」(織田作之助原作)九月「あたい達でも」十月「女のある波止場」十二月「風の中の花」などの諸作を、邦楽座(現松竹ピカデリー)を本拠とする劇団・明朗新劇のために書き続けた。明門新劇とは小堀誠、花柳小菊、桑野通子らを主力メンバーとして、当時松竹の演劇担当重役だった高橋歳雄氏が運営に当っていた劇団。ほかに「蘇る青春」等の移動演劇用脚本もこの年に書かれている。
 昭和二十年(1945)
 一月「レイテ湾」を渋谷東横劇場(現渋谷東宝)の緑波一座に、「続あたい達でも」を新宿第一劇場(後の新宿松竹座)の明朗新劇に、三月「続々あたい達でも」を邦楽座の明朗新劇に、四月「安南の結婚」を渋谷東横の灰田勝彦、小夜福子らの劇団に書いて、菊田氏は八月の終戦を迎えている。「安南の結婚」に次ぐ「南風の合唱」が、戦争末期、菊山氏の最後の作品であったが、その初日(四月二十五日)の前夜、東京の山の手はB29の大規模な空襲に見舞われ、渋谷東横も被災して公演はお流れとなった。
 八月下旬「南風」九月「新風」を脱稿。前者は戦争末期に情報局より最後の仕事として委嘱をうけていた宿題の作品。後者は十一月、邦楽座に明朗新劇で上演された戦後の第一作。十月―十二月、NHKに連続放送劇「山から来た男」を書く。
 昭和二十一年(1946)(二頁終了)
 一月「サーカス・キッド」三月「舞台は廻る」を日劇・有楽座の榎本健一一座に書く。二月「山から来た男」を新宿第一劇場の明朗新劇に、三月「非常警戒」を日劇小劇場の集団日小のために書く。日劇小劇場は現在の日劇ミュージック・ホールの前身。以前は試写室だった同ホールで、「非常警戒」は初めて演劇公演を試みたもので、一ぱい道具、四幕の芝居。その芝居にまだ全くの無名であった森繁久弥が、はじめて主役を与えられて登場した。
 一月より「夜光る顔」三月より「駒鳥夫人」九月より「リラの花忘れじ」――何れもNHKへの連続放送劇。都内に劇場の数が少なくなったためもあり、この頃から数年間の菊田氏の仕事には殊に放送劇作品が数多くなっている。
 昭和二十二年(1947)
 一月に「東京哀詩」十月に「堕胎医」と、菊田氏戦後の初の大ヒット作が、千秋実らの薔薇座によって日劇小劇場に上演された。――ガード下に七人の戦災浮浪児とその浮浪児に慕われている与太者とパンパン、枯れた木の葉のように老いさらばえた浮浪者らが住みついている。「東京哀詩」はその集団の人間像をリアルな筆致で力いっぱいに描いた四幕の野心作。雪の日の朝、浮浪児とパンパンの生活を守るため、仲間のやくざの私刑をも覚悟の上でかけ合いに出かけて行った若い与太者が、そのままついに帰って来ない、最後の幕切れが感銘的だった。「東京哀詩」も「堕胎医」も夫々三月・十二月に再び薔薇座で日小に再演されている。
 四月「弥次喜多道中膝栗毛」五月・その続篇は有楽座で榎本健一、古川緑波両座の合同公演のために書かれた、久しぶりの大爆笑劇――戦前からも喜劇界の大きな宿題とされていたエノケン、ロッパの初顔合せは、果然大当りであったことは云うまでもない。
 なおこの年の七月五日からNHKの連続放送劇、記録的な聴取率をあげた「鐘の鳴る丘」が始まっている。
 昭和二十三年(1948)
 「鐘の鳴る丘」が四幕の舞台劇に脚色され一月下旬、二月中・下旬の日劇小劇場に出ている。同じくその信州篇が新劇団・創作座のために書かれ、七月の有楽座に上演された。
(以下次号)

編集だより
 「菊田一夫戯曲選集」――ようやくその第一集を皆さまのお手もとにお送りする運びとなりました。第一集には、ごらんのように菊田氏の作品中から、殊にタイトルの知れ亘った名篇を主として選び、それに珍らしい初期の作品や、テレビ・ドラマの数篇等を加えましたが、もとより知れ亘った作品といってもほんの一部分に過ぎません。
 今秋刊行の第二集には、第一集に洩れた終戦まもない頃の名篇「東京哀詩」や「堕胎医」をはじめ、日比谷芸術座の舞台をにぎわした「がっこの先生」「がしんたれ」「悲しき玩具」「越前竹人形」などの、最新作もふくめて、是非収録したいと思っております。それに新派や新国劇その他に書かれた「シンガポールの灯」「海猫とペテン師」「私は騙さない」「花と野武士」等も出来る限り採録したいつもり、なにとぞ御期待を願います。
 なお本第一集に掲載の作品は、作者自身がすでに校訂した活字本のあるものは大体それに拠りましたが、然らざるものは実際の上演にあたって、菊田氏自身が演出者として手を入れた上演台本を、出来る限りスタッフ諸氏からあさって、それを印刷原稿とすることにつとめました。が、まだ行き届かない点も若干あると思われますので、読者の御諒承をお願いするよりほかございません。
 本選集は、大体、第三集をもって第一期の刊行を終ろうという予定ですが、なにぶんにも莫大な量の菊田氏の作品……どれを採録しどれを割愛するかについては、第二集、三集の編集に、いよいよ難かしさが増すのではないかと恐れをなしています。大方の読者の力強い御支援をお願いしてやみません。
(四頁終了)

菊田一夫戯曲選集
月報・第二集

菊田さんの戯曲
遠藤慎吾
 フランスにブールバール演劇というのがある。元米パリのグラン・ブールバールの街に立ち並ぶ商業劇場で上演される通俗劇を指し、多少軽蔑的な意味を含んだ言葉だった。ところが、最近は、アカデミックな古典劇や時代の先端を行く前衛劇に対し、比較的判りやすい手法で現代を取り扱った芝居という風に解釈され、その秀れたものは、芸術的価値の面でも、決して他の演劇におとらない、と思われるようになって来た。ブールバール劇に対する評価が上って来たとも云えるわけで、それには、ブールバール劇の作者に秀れた人々が出て来て、よい作品を書いたのが、あずかって力があった。
 日本でも、歌舞伎と新派が中心だった商業劇場の芝居を、現代人の感覚に耐えるものにしようとする、いろいろの努力が行われている。そして新派ではない現代劇というものの形が、或る程度まで浮び上ってくるようになった。こういう仕事の、代表的なチャンピオンが菊田一夫である。
 彼の戯曲には、歌舞伎、新派、或いは浅草の大衆劇などの伝統的な戯曲手法が、縦概に駆使されている。笑わせたり、お客の涙をしぼらせたりを、手もなくやってのける手法には、古くからのものを、うまく利用しているのだが、それでいて新派劇の_¨あざとさ¨_やお涙頂戴の雰囲気は、ちっとも感じさせない。すべてが、ちゃんと現代の感覚にマッチしているのである。
 その秘密を適確に捕えるのは、なかなか難しい。この選集の刊行が終ったら、も一度全部を読み直して、その秘密の正体を論じてみたいと思っている。が、とにかく、その原因の一つが、現代と取り組み、それを咀嚼し、表現して行く際に、いつも基盤に流れている菊田リリシズム、菊田センチメンタリズムの新鮮さにあることは、確かである。
 「東京哀詩」、「堕胎医」などは、現代の生々しい現実を素材とした作品だが、そこには、われわれの心の底の哀愁をかきたてるような、不思議なセンチメンタリズムが潜んでいる。テーマや素材が、うまく、そのセンチメンタリズムにくるまれながら、われわれの心を揺り動かす。それが、現代の広い層の誰でもを捕える(つまり、よい意味で大衆的な)魅力を持つ原因である。
 「海猫とペテン師」は、菊田一夫得意のペテン師ものの一つだが、ここには、菊山独特のリリシズムが漂っている。ペテン師の中に人間を見出し、それを愛情をもって描き出そうとする態度の中に、菊田らしい現代に対する諷刺がひそんでいて、それが、今までの商業演劇に見られない新鮮さを生み出している。しかも、人間らしいペテン師の描写には、菊田のリリシズムが流れこみ、誰でもが、ほほえましい愛情を持たずにいられない人間像が浮び上ってくる。
 とにかく、この選集は、商業演劇を現代劇へと近づけた、里程標の記録と云ってもいい、貴重な存在である。(一頁終了)

菊田一夫・劇作略譜
(2)
 昭和二十四年(1949)
 十一月号の雑誌「日本演劇」に「南京豆と勲章」四幕を発表。NHKのラジオ・ドラマに「狂える季節」「黒百合夫人」などを書く。
 ラジオ・ドラマの前者は麻薬中毒の女患者を題材とした異色の作品。梢という女の麻薬による生態の変化が、これでもかとばかり執拗に追求されてすさまじいものがあった。後者はこの作者が好んで書く幻想劇とも名づけたいものの一つ。残酷な境遇におかれた高貴な女に、素朴でたくましい一人のアイヌ青年がからむ。夏川静江がその女主人公と前者の麻薬患者を、印象ふかく好演した。
 二十二年七月五日に始まった「鐘の鳴る丘」はNHKの連続放送劇として最初は六ヵ月の予定で企画されたもの。併しこの年もずっと書き続けられて、空前の聴取率をあげ、世評を賑わした。
 昭和二十五年(1950)
 NHKにラジオ・ドラマ「ゼイランジヤ城の幽霊」「氷雨降る」等を書く。南国のエキゾティックな雰囲気のうちに早熟で孤独な一人の少年を点出して、彼の抱く美しいものへのあこがれを描いたのが「ゼエランジヤ城の幽霊」。まことに凝って構成された音と歌とセリフのスペクタクルともいえる作品であっ たが、初演の際は時間の関係で大カットが余儀なくされ、残念な結果に終っていた。三十五年九月にミュージカルのTVドラマとして、日本テレビで再放送。
 七月「シンガポールの灯」が新国劇により新橋演舞場で“東京初演”となった。
 昭和二十六年(1951)
 連続放送劇「さくらんぼ大将」執筆の傍らNHKに「島の嵐」「秋芳洞」「浅草幻想曲」等のラジオ・ドラマをもたらす。「秋芳洞」は今日の山口県・秋吉台地の地下にある巨大な鐘乳洞にまつわる伝説を、「太平記」に出る千種少将という人物に結び付けて創作した南北朝ごろの物語。この作者には珍らしい時代劇の一部二部に亘る力作であった。
 舞台では一月の新橋演舞場に「風の口笛」二月の帝劇コミック・オペラの第一回公演に「モルガンお雪」を書く。前者は水谷良重の新派初出演のために与えた書きおろし脚本。ガード下に住む夜の女たちの生態。売れ残りのパン助(八重子)が浮浪児にそそぐ母親のような愛情がつぶさに描き出された作品。「モルガンお雪」は秦豊吉帝劇社長が、かねてから意図していた本格的なミュージカルの試みに応じたもの。二部三十場。モルガンに古川ロッパ、お雪に宝塚の越路吹雪が起用され、公演も当って二ヵ月続演した。越路もこのヒロインとしての成功がきっかけとなり、その後縷々帝劇の舞台に出演を続ける。
 十月、この作者としては稀有な未上演作品「尾道」が脱稿された。
 昭和二十七年(1952)
 三月・宝塚歌劇雪組に「猿飛佐助」五月・明治座の新国劇に「ミスター浦島」七月・同じく明治座の新派に「三等重役」〈源氏鶏太原作〉十月・宝塚雪組に「ジャワの踊り子」等を書く。「ミスター浦島」は島田正吾の扮する香港帰りの老人が、三十年前に写真結婚で破談になった女性(外崎恵美子)と偶然の機会から再会するが、互いに心をひかれながらも男は浦島太郎、女は皺だらけの浜辺の老婆で、ついに結ばれずに終る……という、歳月のかげ、人の世のペーソスが何気ない笑いのうちにとらえられた作品。
 六月よりNHKの連続放送劇「君の名は」が始まる。阿里道子、北沢彪、夏川静江、古川ロッパらの主演。この典型的なメロドラマの全国的な人気は、放送開始後、幾許もなく急上昇してラジオの聴取率は九〇パーセントをこえるという、空前の記録を立てた。二十九年四月まで足かけ三年、映画や流行歌の面でも大ヒットをみせて、この劇は連続し、終(二頁終了)っている。
 なおNHKのラジオ・ドラマに横断バス」「銀座裏生前二時」等の短篇作も、この年に書かれた。
 昭和二十八年(1953)
 明治座一月の新国劇に「海猫とペテン師」同じく六月の新国劇に「十八度線のペテン師」宝塚大劇場七月の雪組に「ひめゆりの塔」帝劇十月の現代劇公演に「縮図」(徳田秋声原作)等の諸作が、相次いで出ている。
 右のうち新国劇の「十八度線のペテン師」は一月の「海猫……」の姉妹篇ともいうべき作品であり、前作でいったん昇天したペテン師三平の魂が、地上に再び舞い戻って、中国人王中元(島田正吾)と生れ代り、共産圏と自由圏の国境で、スパイとなって存分の活躍をするという趣向のもの。「縮図」は帝劇の試みた第一回現代劇公演への書きおろし脚木。当時すでに映画化もされていた徳田秋声の最後の作品の舞台化。汚れ切った人生を歩みながらも、結婚という男女生活のひとつの落着きに、強いあこがれを持ち続けて、心の清純を失わずに死んで行く――銀子という基者の“女の一生”であった。宝塚から新球三千代がその銀子に抜擢されて力演をみせた。
 ラジオ・ドラマの方でも「君の名は」を続稿のかたわら「北京の鶯」「ナガサキ」「鷗」「ながれ」等、この年にはすぐれた短篇作品が少なくない。
 昭和二十九年(1954)
 帝劇八月の現代劇第二回公演に「芸者秀駒」を書く。宝塚大劇場十一月の花組に「ワルシャワの恋の物語」を書く。放送作品ではNHKのTVバラエティに「蛮洋先生のお正月」ラジオ・ドラマに「湯の峯」その他が昔かれている。
 「芸者秀駒」は昭電事件の女主人公と同名の芸者が舞台に動く世相劇であったが、物語の主筋は、貧しい印刷工場主の三人が、ある役所の川店係長を買収しようとして失敗する……ちっぽけだが、痛ましい汚職の悲劇。秀駒(日高澄子)と同じ家の抱妓である秀千代(新珠三千代)がドラマのヒロインで、これが右の工場主のうちの一人の娘という設定になっていた。「ワルシャワの恋の物語」はこの年の四月にラジオで大団円となった「君の名は」をダイジェスト版として、世界をポーランドに移してみせたもの。春日野八千代と新珠三千代の主演コンビ。十二月にも星組で続演されたが、三十一年の新春にも東京宝塚劇場で再演されている。
 昭和三十年(1955)
 明治座六月の新国劇に「私は騙さない」宝塚大劇場十二月の雪組に「ローザ・フラメンカ」(スペインの情熱)等が出る。「私は騙さない」は例により、作者が島田正吾に当てたペテン師瀬木三平もので、十年前に殺人事件を起し、刑をおえて出て来た三平が、恋人をたずねて、事件の起った別荘を訪れてみると、殺したと思った人間は生きていて、自分は全く別の殺人事件で、長年罪を背負っていたことが判明する。回想形式でそれが語られて行くというサスペンス・ドラマであった。
 ラジオへの作品も、「青いひとで」「橋の下」などが、NHKにこの年も書かれたが、後者は三十年度の芸術祭参加作品。刑事に追われた若い男が、自分を日本有数の財閥の御曹子であるかの如く装って、橋の下の浮浪者の群に紛れこみ、そして可憐な浮浪者の娘やその両親に、シンデレラの抱くような愉しい一夜の夢を結ばせるという、これまた一種の(三頁終了)ペテン師ものであった。なお「大盗大助」という三幕の書きおろし脚本が、この年、俳優座劇場で四月初旬に行なわれたNHK放送劇団の公演のために、書かれている。
 昭和三十一年(1956)
 (菊田氏はこの前年、昭和三十年九月二十五日より東宝株式会社取締役に就任、演劇部の最高責任者となった)
 東京宝塚劇場の二月に「恋すれど恋すれど物語」同劇場の七月に「俺は知らない」九月に「極楽島物語」十月に「百舌と女」十二月に「パンと真珠と泥棒」を書く。長谷川一夫らの東宝歌舞伎に書いた「百舌と女」以外はすべて宝塚劇場の大舞台を意識した、“東宝ミュージカル”の脚本であり、作と共に演出も菊田氏自身が受持っていた。「百舌と女」は大阪の、左り前になった材木店が舞台。その店の危急を救うために大人しい姉娘が愛人の若い番頭と別れて、金持ちの老人のもとへ後妻に行く。気のつよい妹娘に、失意の番頭を慰める船頭の兄(長谷川一夫)などが登場――往年の「道修町」に似た世界に長谷川のいい役が光っていた。
 梅田コマ劇場のこけら落し(十一月)に「姿なき犯罪」宝塚大劇場の十一月花組に「天使と山賊」NHKのラジオ・ドラマに「開かれぬ手紙」(一・二月)が出る。「姿なき犯罪」は梅田コマ独特の回り舞台をフルに活用して、豪華なキャバレーの内部をみせながら、そこで起った殺人事件を小気味よく絵解きしてゆくスリラー。三十三年の六月にもこの劇は新宿コマ劇場の舞台に、伊志井寛以下の新派劇団で再上演されている。
 昭和三十二年(1957)
 東京宝塚劇場の二月に「金瓶梅」、同三月に「すっぽん」、同九月に「メナムの王妃」を書く。芸術座の四月、開場第一回公演に「曖簾」、同九月に「ながれ」の現代劇二つをも書く。
 こけら落しの芸術座に、森繁久弥、三益愛子、八千草薫らで上場された「暖簾」は、大阪船場の昆布問屋の_¨のれん¨_を、明治、大正の頃から昭和にかけて、幾度かの災害にもめげずに守り通した男の物語。山崎豊子女史の原作であるが、脚色されたものはかなり小説とは遊離して、女ツ気も多い中間演劇となっていた。四月二十五日から六月二日まで、好評四十日間続演。芸術座の第一年目では、この「暖簾」と、もう一つの菊田作品「ながれ」のみが興行の上でも好成績を上げえたといってよい。(以下次号)

編集だより
*第一集に載らなかった戦後十年間ほどの作品中から「東京哀詩」ほか四篇、近年の芸術座への作品中から「がしんたれ」ほか二篇、「花咲く港」前後の戦時中の作品から「わが家の幸福」と「長崎」、それに菊田氏が最も放送ドラマに意欲をもたれていた頃(昭和二十年代)の作品中から連続ものでない四篇のラジオ・ドラマ――
*以上が、この第二集に入れた菊田作品の色分けですが、なお頁数の関係から第一集の月報でお約束した「私は騙さない」「がつこの先生」等数篇の佳作を、割愛せざるをえなかったのは残念でした。第三集にはこれら超過した作品のほかに、新帝劇、芸術座等への菊田氏のごく最近の、老熟した大作をも併せ載せたいと思っておりますので、何卒御期待のほどを願います。
*第二集の発売が、このようにおくれましたことも衷心よりおわび致さねばなりません。昨年五月第一集を発売まもなく、編集者が思いがけぬ重病にとりつかれ(私事を記して恐縮ながら)約四カ月ほどを無為に過しましたのが崇りました。第三集の発行をつとめて急ぎましょう。
*なお本集のまとめに当っても例により、演出台本や舞台写真等の蒐集に際して、東宝演劇部の池野満氏、新国劇の金子市郎氏、俳優の千秋実氏、菊田プロの平川明氏らにひと方ならぬお手数を煩わしました。記して厚く謝意を表します。(n)(四頁終了)


菊田一夫戯曲選集
月報・第三集

劇づくりのうまさ
杉山誠
 菊田さんて人は、劇づくりのたいへんうまい作家だと思う。観客の心の動きをよくとらえ、そのリズムのツボというものをよく心得ている。観客を自家薬籠中のものにしてしまううまさがその作品のほとんどすべてのなかに見られる。
 川口松太郎さんもうまい作家だが、そのうまさは主として筋の運びのうちに、いえば話術のうちにある。それに対して、菊田さんのうまさは、人物や場面の設定の仕方に、殊に映えるのである。
 菊田さんはいつの時代でも、いわば座付作者であったわけだが、その特別の位置を、うまくそのドラマトウルギイのなかに生かしているのだ。平たく言えば、俳優に役をはめて実にうまく書くのである。俳優を生かしながら、劇をつくるということになる。俳優と役とを結び合せて、そこに劇を生み出すというわけだ。

 たとえば、この巻に収められた「ミスター浦島」と「私は騙さない」とは新国劇の依嘱で書かれた作品だが、ともに島田正吾を主人公役に当てはめて、まことに効果を挙げているのである。島田の特質をよくとらえて、それを劇中人物として、十分に生かし切っている。俳優を考え、そこから役を割り出して、劇をつくってゆく。俳優はそこに思いのたけ腕をふるう場所を見出す。菊田作品が舞台にかかって面白いというのは、そういうところにあるだろう。
 全体としては、統一したまとまりのない、出来栄えの必ずしもよくない作品でも、そうしたことから、必ずと言っていいほど、面白い場面が展開する。
 「明治百年」は第一部の維新篇がまことに堂々とした開幕篇となっているが、その序幕に幸四郎、島田、辰巳、三国連太郎などに、それぞれふさわしい役を振り当てて、実にうまく処理しているのである。それによってこの場面は重々しく光っている。こういうところが菊田さんの劇づくりのうまさと言うべきで、もしこれだけの俳優がそろわなければ、また別の手をうったにちがいない。

しかし、こう述べて来たからと言って、俳優を想定しなければ、菊田さんは面白い芝居を書けない、と速断してもらっては困る。傑作である「花咲く港」は、古川緑波というものを頭に置いて書いたのかも知れないが、それはそれで今や作品としてひとり歩きが出来るのだ。それほどにすぐれた作品だ。
 「風と共に去りぬ」の成功の原因として、一般にそのシアトリカルな面が強調されているが、菊田さんはそこに登場する人物に決して特定の俳優を想定して描いてはおらず、それがこの劇をして、これまでの菊田作品とちがう基調を整えさせ、新しい面白さをも湧出させているのである。やはり、菊田さんは劇づくりのうまさを持っているのだ。(一頁終了)

菊田一夫・劇作略譜
(3)
 昭和三十三年(1958)
 芸術座の一月に「風雪三十三年の夢」四月に「まり子自叙伝」七月に「蟻の街のマリア」十二月に「花のれん」を書く。東京宝塚劇場のミュージカル公演に二月「金色夜叉」七月「すれちがいすれちがい物語」十二月「女優物語」を書く。
 「まり子自叙伝」は歌手宮城まり子の主演でヒットした、この年の芸術座のロングラン作品。六月廿二日まで続演され、まり子はこの作品を含めた年間の舞台成果で、三十三年度のテアトロンを受けている。虚実とりまぜて菊田氏が_¨他叙¨_したまり子の世に出るまでの物語。東宝劇場の「女優物語」は松井須磨子の半生を越路吹雪の主演でミュージカル化したもの。併しこの年の一番の労作といえば、菊田氏が八月の新宿コマに出る新国劇のために書いて評判をよんだ「ビルマの竪琴」であろう。文部大臣賞受賞の竹山道雄氏の原作を劇化したもの。
 昭和三十四年(1959)
 東京宝塚劇場の六月にミュージカル「バリ島物語」九月に「参謀命令」十一月に「ダル・レークの恋」十二月に「浅草の灯」などが上演されているが、「ダル・レーク」は春日野八千代が演出した宝塚歌劇のための作品。「浅草の灯」は昔なつかしい浜本浩の浅草小説の脚色篇。芸術座には一月に「大和撫子」二月に「がっこの先生」六月に「今日を限りの」等の諸作が出ているが、何といってもこの年は菊田氏が今なお演劇ファンの話題にのこる「がめつい奴」を秋の芸術祭に出した年として記憶されるだろう。十月五日初日、翌年七月半ばまで十カ月に及ぶ空前のロングラン記録をたてた。菊池寛賞、テアトロン賞、その他を受賞。お鹿婆さん・三益愛子(芸術祭賞)の好演が忘れがたい。
 昭和三十五年(1960)
 芸術座の八月に「天皇のベッド」十月に「がしんたれ」東京宝塚劇場の二月に「流浪物語」十一月に「敦煌」などが書かれているが、「がしんたれ」は作者の同名の自伝風な長篇小説を、こんどはドラマとしてリトールドしたもの。果然、ヒットして翌年三月末まで続演となっている。
 「敦煌」は井上靖の西域小説を劇化した東宝グランド・ロマンの第一作で、興行的には中途、主役の交替があったりして上乗でなかったが、作品そのものは、もう一度再演をの声が今だに聞かれる。力篇であった。十一月末には中村勘三郎らの扇の会(歌舞伎座)に舞踊劇「道化師」を書いている。
 「雲の上団五郎一座」という爆笑ミュージカルが、菊田氏の企画・演出で東京宝塚劇場の十二月の舞台に現れ、毎年大評判になったのはよく知られているが、その第一回がスタートしたのもこの年であった。
 昭和三十六年(1961)
 松本幸四郎父子や中車、芝鶴、又五郎らが東宝の専属となって、東宝劇場に初お目見得の公演を行なったのが、この年の六月。それに「野薔薇の城砦」という、これもグランドロマン風な作品を菊田氏は書いているが、ほかに「春、花びらの……」(舞踊劇・二月)「香港」(五月)「砂漠に消える」(宝塚歌劇・十一月)の諸作が、この大劇場に出ている。芸術座の方では六―八月に「お鹿婆さん東京へ行く」(「がめつい奴」の続篇)十―十二月に「放浪記」が上演されたが、後者は前年の「がしんたれ」で林芙美子役を好演した森光子に、こんどは出ずっぱりの、主役としての芙美子をやらせるという企画で書かれたもの。森光子、芸術祭賞受賞。テアトロン賞もこの作品に来た。
 なお二月の歌舞伎座、七世幸四郎の追善公演には本集所載の「花と野武士」が書かれている。
 昭和三十七年(1962)(二頁終了)
 テアトロン賞など受賞の「放浪記」が、この年も三―五月に芸術座で上演されている。六月には「今日を限りの」も再演された。芸術座への新作としては、一月の「怪盗鼠小僧」(幸四郎そのほか)十―十二月の「悲しき玩具」があるが、後者は言うまでもなく石川啄木の生涯を、菊川氏らしい照明のあて方で劇化したもの。東宝劇場の方には二月に「女を売る船」(森繁劇団)九月に「君にも金儲けができる」(ミュージカル・コメディ)十月に「霧に消えた男」(東宝歌舞伎)などのオリジナル、それに六月に「仏陀と孫悟空」と「花の生涯」(東宝劇団)などの脚色ものが書かれたが、武者小路氏のごく短かい同名の戯曲を、愉快な五場の舞踊劇にした「仏陀と孫悟空」が、とりわけ好評であった。菊田氏らしい才気躍動の脚色。
 「君にも金儲けができる」は、芸術座の「悲しき玩具」とともに東宝創立三十周年の演劇まつりに参加した出し物。フランキー堺、八波むと志、高島忠夫、越路吹雪、草笛光子浜木綿子らが揃って好演した、華やな舞台に書かれた台本である。
 昭和三十八年(1963)
 芸術座に一―二月「丼池」三―四月「浅草瓢箪池」七―八月「銀座残酷物語」十一―十二月「女の旅路」等があり、東宝劇場に二月「恐妻侍の死」四月「花のオランダ坂」六月「カチューシャ物語」七月「ブロードウェイから来た13人の踊り子」明治座に十一月「湯島切通し」新宿コマに十一月「一〇〇万人の天使」梅田コマに同じく「阿蘭陀物語」等が出ている。
 右のうち幸四郎そのほかの東宝劇団に書いた「恐妻侍の死」は松本清張作「怖妻の棺」の劇化。好短篇の巧みな脚色と評判された。「ブロードウェイから来た13人の踊り子」は実際に本場から来たジェイム・ロジャースの踊り手たちを舞台に迎えた菊田ミュージカルの雄篇。ロジャースとジェイ・ノーマンらがこの台本のダンス場面を担当、息づまるような稽古で、迫力ある舞台を展開した。「花のオランダ坂」と「カチューシャ物語」は宝塚歌劇のための台本。
 なお、東宝劇場この年の十月には、例の「マイ・フェア・レディ」の日本初演が、菊田氏の上演権獲得によって、めざましく行われた。菊田氏の製作・演出。
 昭和三十九年(1964)
 東京宝塚劇場に出た作品では二月に「蒼き狼」四月に「シャングリラ」六月に「花と匕首」七月に「クレオパトラ」八月に「砂に描こうよ」等。芸術座に出たものでは一―三月に「越前竹人形」十―十二月に「濹東綺譚」等がある。「シャングリラ」「クレオパトラ」などの宝塚歌劇もの以外は、何れも脚色であるが、同時に菊田氏のオリジナリティが多分に加味された、面白い“菊田脚本”だったと云ってよい。「蒼き狼」は染五郎の成吉思汗に比類ない迫力の演技をさせ、「越前竹人形」は中村賀津雄、森光子に大へん潤いある舞台を流露させた。「花と匕首」はこの年九月の明治座に書かれた、これも好脚色の「さぶ」とともに山本周五郎氏の原作もので原名は「夜の辛夷」。幸四郎以下に山本富士子が加わった一座への脚本である。
 この年、なお菊田氏は劇作活動以外に、芸術座で六一八月「ノーストリング」(リチャ(三頁終了)ード・ロジャース作詞作曲)九月「奇跡の人」(ギブソン作)新宿コマで十一月「アニーよ銃をとれ」等の演出に、力を尽している。
 昭和四十年(1965)
 芸術座三―五月に「有田川」六―七月に「終着駅」八一九月に「この気持を…」十―十二月に「霊界様と人間さま」を書き、東宝劇場一月に「リュシエンヌの鏡」三月に「霧深きエルベのほとり」六月に「長崎出島」ほかの作品を上演させている。新橋演舞場の七月に「誰にもやらん」(松竹新喜劇)新宿コマの十一月に「芸者春駒」(江利チエミほか)なども此年書かれている。芸術座の「有田川」は有吉佐和子の原作もの。森光子、司葉子、加東大介らの出演で上半期のよき収穫とされた。その翌月の「終着駅」は、宝塚の那智わたるが市川染五郎との共演に当てて企画された作品。往年の映画で評判だったサヴァティニの作品から脚色されたもの。「長崎出島」は山本富士子が男装の女書生で登場という、幸四郎一座の二番目ものであった。
 昭和四十一年(1966)
 この年、芸術座の一―二月には「細雪」の脚色が出て大ヒット。次いで三―四月に「女紋」大分距って十―十二月に「宴」(うたげ)の脚色が書かれている。東京宝塚劇場には一月の東宝劇団に「八幡船」七月の同じく東宝劇団に「甲府在番」の脚色、十月の東宝歌舞伎に「ぼんち」の脚色などあるが、「甲府在番」はやはり幸四郎一座に山本富士子、それに梅幸加入という顔ぶれにあてた本。松木清張原作。「ぼんち」は前に中村扇雀の主演ものとして菊田氏が脚色した作品を、再び東宝歌舞伎(長谷川一夫ほか)むきに改修した山崎豊子の原作もの。このほか三月の宝塚歌劇作品「夜霧の城の恋の物語」も菊田脚本。ほかに「雨の面影坂」という本も大阪新歌舞伎座――長谷川一夫、山本富士子の顔合せに書かれている。が、何はともあれこの年の菊田脚本の豪華版は十一月三日初日で帝劇に開幕された「風と共に去りぬ」であろう。マーガレット・ミッチェル原作小説の世界最初の劇化。文字通り空前のヒットをつづけ、漸く四十二年四月二日に第一部の千秋楽を迎えた。第二部の上演は六月一日初日。
 なお四十二年に入って、菊田氏は東宝劇場に一月「明治百年」二月「津軽めらしこ」(ミュージカル)を書き、芸術座に「縮図」(徳田秋声原作)の脚色を出して、いよいよ健在である。

編集だより
*ここに、第三集を出して「菊田一夫戯曲選集」も、ひとまず第一期の刊行をおわることになりました。本集には第二集で逸した「がっこの先生」や「私は騙さない」の佳篇とともに、その後、編集中にみっかった終戦直後の「非常警戒」や、ごく最近の作など……十篇あまりを収載しましたが、今までの集になかった宝塚歌劇への作品も、一篇だけですが「ひめゆりの塔」を加えました。
*第一集から第三集まで、頁数にして約千八百頁ちかくですが、その中には菊田氏の所謂脚色もの――有楽座、帝劇、芸術座等で大当りした非常な数の、原作ある作品――は一つも載っておりません。が、その中の相当数は単なる脚色という以上に菊田戯曲のオリジナリティが加わって、多彩な感動の場を描いている作品であります。本選集の仕上げを終って、そういう,菊田脚本、をも、またの機会にやはり活字にしておくべきではないかと感じました。
*なお、本選集に入れた上演戯曲の多くは、出来る限り、作者自身が演出にあたって手を入れた最終の台本を、当時のスタッフ諸氏からあさって、それを印刷原稿とすることにつとめました。例によって、この第三集の編集に際しても、台本や舞台写真等の蒐集については東宝演劇部の池野満氏、新国劇の金子市郎氏、俳優の千秋実氏、菊田プロの平川氏、校正に当っては小原大策氏らの熱心な御協力を得ましたことを記し、有難く御礼申し上げます。(N)

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劇団薔薇座の軌跡

 1977年(昭和52年)4月赤坂国際芸術家センターに於て、劇団薔薇座は、旗あげ公演を行ない、それ以後、劇団公演16回、アトリエ公演9回、提携公演8回、合同公演1回という活発な上演活動を続けている。
 しかし、野沢那智が劇団を結成し上演活動を始めたのは、じつは66年(昭和41年)7月(第一回公演ジャン・コクトー作「バッカス」)の昔にさかのぼるのである。72年7月第九回公演アルベール・カミュ作「戒厳令」で活動を中断するこの時期を第一次薔薇座と名づけよう。
 第一次・薔薇座のレパートリーは、フランス戯曲だけだった。ギリシャを祖とする西欧演劇直径のフランス劇に、焦点をしぼった舞台づくりだった。話し言葉のダイナミクス追究による内面的ドラマ形成が、第一次薔薇座の最大特色である。
 その伝統は、野沢那智がみずから編集した実習教科書「声と言葉」によって、第二次薔薇座にも脈々と受けつがれている。しかし、活動休止の雌伏期にも、リーダー野沢那智は、大きく成長をとげていった。内面的ドラマを舞台に表現しつくすには、言葉だけでなく肉体表現も必要であり、スタッフと役者との協力による空間表現も必須のものであるという総合的演劇観の持主に、彼は変貌しつつあった。
 ことに演劇空間が多様化しつつある今日、歌と踊りをもどんよくに表現手段にとりこむことを彼は望んだ。その意図はまず研究所カリキュラムに具現され、やがて第一次の禁欲的レパートリーに決別をつけ、ミュージカルをふくむ多様なレパートリーを擁して、その成果を世に問うこととなった。第二次薔薇座の誕生である。
 まず旗あげに、第一次のレパートリー、コクト-「円卓の騎士」を、赤坂国際芸術家センターという体育館式ホールで、ユニークな空間造形により上演したことは、第二次・薔薇座の性格を出発第一歩に示したものとして象徴的であった。ひきつづき、稽古場をアトリエ公演空間として解放し、やつぎばやに第一回アメリカのマレー・シスガル、第二回ロシア古典ドストエフスキ-とチェーホフ、第三回フランスのジャン・アヌイと、多彩に展開、さらにフランス喜劇の王者ジョルジュ・フェドーの代表作三本連続公演によって上演日数を3週間にも延ばし、ブロードウェイでヒットしたばかりの新作「ジェミニ」上演という豪華なレパートリーにより、アンチームなふれあい空間で、若さを爆発させる団員の熱演によって、熱烈なアトリエ・ファンを獲得することができた。
 本公演のほうももちろん、このアトリエのゆたかな前衛性に負けてはいない。ことに、雌伏の研究期間中に、野沢那智がそのドラマ性をわが国でも花開かせ得ると見抜いた英米ミュージカルの異色作「セレブレーション」「アップル・トゥリー」「地球よ止まれ、俺は降りたい」「ローマで起こった奇妙な出来事」「グリース」を次々と外部スタッフの貴重な協力も得て、劇団の総力をあげ果敢にその舞台化に挑んだのである。さらにその後、ブロードウェイでヒットしたシリアス・ドラマ「デストラップ(死のわな)」と「ベント(ねじまげられて)」の2作を俳優座劇場にかけて成功、ストレート:プレイの上演にも実積を築いた。
 81年6月ニハ【ママ】「ローマで起こった奇妙な出来事」を松竹との提携公演としてサンシャイン劇場で再演、82年5月ふたたび松竹との提携公演としてサンシャイン劇場で「グリース」を再演、10月には、初演以来の好評にこたえて「アップル・トゥリー」を俳優座劇場で再々演。こうして薔薇座は劇界に確固たる地位を築き、観客の新たな期待に応じうる劇団にまで成長したといえる。
 ことに上演中のブロードウェイ・ミュージカルの舞台をそっくりそのまま真似て、日本に直輸入しようとする興行資本のやりかたとはちがって、あくまで自主的な価値判断に基づく野沢那智のレパートリー選定には、強力な理解者もあらわれ、野沢演出、雪村いづみ主演「旅立て女たち」が、薔薇座
 【改行ママ】参加の異色公演として、81年度3月から9月まで原宿ラ・フォーレでロングラン、その後、郵便貯金ホールの再演に続いて全国各地で公演、さらに83年度芸術祭参加公演として、主演の雪村いづみが優秀賞を受賞したことは特筆に値する。
 そののち、劇団外部の役者や他企業との提携公演が増えるにつれて、劇団の体質はじょじょに変貌を遂げていった。そして、いい意味での〈ひらかれた劇団〉として、外部の才能といつでも協力しあえる体制が、自然にできあがった。85年5月サンシャイン劇場「グリース」82年12月シアター・アプル「飛べ!京浜ドラキュラ」85年3月本多劇場「覗きからくり遠眼鏡」85年7月博品館劇場「ベイビー」がその成果である。しかしその間に、第一次、第二次を通じてなお劇団にのこっていた「外界と絶縁して団結をかたくなに守る」という日本新劇団に共通の姿勢は、いつのまにか崩れてしまった。
 84年12月前進座劇場「ベント」再々演、85年1月労者会館「クライムズ・オブ・ハート」85年5月俳優座劇場「キング・オブ・ハーツ」の成果を最後のみのりとして、第二次薔薇座はその幕を閉じた。劇団活動を推進してきた玄田哲章、椎橋重、鈴木清信の三人をはじめ、主要メンバー十余名が劇団を去った。そして、残された者の大半は、80年以後に入団した研究生ばかり、しかもほぼ全員女性という異常事態が生じた。さすがの野沢那智もこのときばかりは劇団解散まで一時は覚悟したようである。
 しかし、80年代に同時進行していた劇団姿勢のオープン化と、この異常事態に勇敢にたちむかった若々しいウーマン・パワーが、難なくこの障害を突破した。85年12月新宿シアター・TOPSこけら落とし「踊れ艦隊のレディたち」を皮ぎりに、86年5月稽古場での久々のアトリエ公演に、イギリス現代作家アラン・エイクボーンの作「来られない夜に乾杯!」を薔薇座育ちの斉藤重紀が演出、8月博品館劇場では、好評による「艦隊のレデイ」再演、10月新宿シアター・モリエールこけら落とし「ミスター・シンデレラ」11月12月とつづけて、札幌と下北沢の本多劇場における野沢那智執念の戯曲「ベント」の第4回目上演という盛況ぶりである。
 第二次薔薇座の遺産は、こうして絶えることなく円満に第三次薔薇座に受けつがれたと評することができよう。戸田恵子、笹水綾子らの先輩を後輩の女性陣が、わずかに残った劇団の男性陣を叱咤[原文は手書きで修正され口へんに太]激励し、外部の才能をあたたかく迎えいれながら、もりたてていくという第三次薔薇座の輝かしい門途を、私は心から祝福する。
(米村晰)

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改良俄は大阪、新聞俄は京都

伊藤友久『偲ぶ草 お芝居三代』(非売品[伊藤友久]、一九八二年)によれば、改良俄は大阪、新聞俄は京都だという。以下、国立劇場の久保田伸子との対談「新京極 読んだり聞いたり見たり」から引用する。

久保田 その後の常盤座、明治座というのは歌舞伎はあまりかからずに、曽我廼家一座とか楽天会なんかが掛かっていたんですね。
伊藤 ご承知のように曽我廼家が日露戦争で浪花座で旗上げしてから、五郎・十郎の曽我廼家劇が人気者になりました。又楽天会というのは俄の延長なんです。
久保田 そうするとこの俄は大阪のではなく京都の俄ですか。
伊藤 そうです。
久保田 京都の俄の話をお聞きしたいのですが。
伊藤 大虎座、朝日座、布袋座……。
久保田 明治座から見ますと新京極通りをへだてて反対側にある小屋ですね。
伊藤 そうです。大虎座も朝日座も俄と喜劇の小屋でした。大阪の俄は鶴屋団十郎、大和屋宝楽、大和屋小宝楽、鶴屋団九郎というふうに、あれはいわゆる改良俄というたんです。それで売り出したんですね。京都の方は新聞俄というんです。ということは当時、今でいうニュースの役割をしてすぐに舞台にかけたんです。
久保田 台本も何もなくて。口だて芝居のようにして……。<三七頁終わり>
伊藤 そう、ほとんど軽口の掛け合いの口だてでやったんでしょうな。それまでの俄といえば卑猥なものか、あるいは歌舞伎仕立の狂言をひっくりかえしたようなものばかりやっていたんです。
久保田 よくそれでまごつくんですが、信濃家尾半とか、_^東玉【とうぎょく】^_とかいう方がいますね。それが歌舞伎の外題で嵐尾半とか實川東玉とかって出てくるんです。
伊藤 それは当時の役者の名前だけを上につけて歌舞伎芝居をやったわけです。これは噺家芝居でもよくやったんですよ。仮りに文楽が片岡が好きなら片岡文楽とか……。それで京都の新聞俄は、たにし、新玉、団五郎、東玉、尾半、南玉、茶好、東ン貴、馬鹿八、こういう所が主力なんです。それから団治、これが後の初代天外なんです。京都の新聞俄は安く見られる、気楽に見られる、それに媚笑いがあったわけですね。それで大虎座、朝日座というのは大変な人気になった。ですから京都は喜劇のはしりなんですよ。
久保田 喜劇といえば大阪が本場という感じがあるんですけれどね。
伊藤 曽我廼家は大阪が発祥ですが、楽天会は恐らく京都が出発点やないかと思いますよ。それから飄々会も京都です。
久保田 喜楽会は?
伊藤 喜楽会は大阪かもわかりません。つまり俄もだんだんと演劇的にせないかないというので、喜劇になったのが桃李会という一座です。それが後に発展して一派が出来たのが楽天会です。<三八頁終わり>
久保田 次にもう少し下って通りをへだてて向い側の夷谷座の話をお伺いしましょうか。今のピカデリーですね。
伊藤 そうです。四条から三条に向かったつき当りです。ここは初めは女役者の芝居だったらしいですね。それで身振り芝居とか浄瑠璃身振りとか、それからだんだん女役者の歌舞伎というようになってきて二流芝居なんかもあったんですが、曽我廼家が出てから五郎十郎の芝居、それから飄々会。飄々会というのは岡嶋屋の嵐吉三郎の弟子で風岡之助という人が_^時田一瓢【ときたいっぴょう】^_、これが座頭で、曽我廼家の一座の泉虎(いずとら)、これが副座頭になって、それから末広狸、清水猛、中西瓢六というような人が主力です。私の親父もそこに関係して、伊藤千成という名前でこれは娘形をしておりましたけれど、立女形に清水猛というのがいたので、その上にはいけませんでした。夷谷座では五、六年常打していたんですよ。
久保田 座付みたいにしていたわけですね。
伊藤 そうです。ということは、楽天会があっちこっち行くことになり、曽我廼家が忙しいし、第三の喜劇団になったわけです。それで夷谷座の常打だったんです。
 それから喜楽会というのは田宮貞楽さんという人が北村_^九貞楽【くていらく】^_、_^吉富楽雁【よしとみらくがん】^_、宮村_^五貞楽【ごていらく】^_、千葉万楽、そういう人を集めて作ったんです。これは喜劇というよりむしろ社会劇に近い芝居です。
久保田 それがだんだん淡海さんみたいになっていくわけですか。<三九頁終わり>
伊藤 淡海劇は、江州音頭から喜劇に転向し、だんだんとよくなって曽我廼家十郎劇の残党——太郎、田村楽太、かもめ、登喜次、白石、弁慶、そういう人を集めて十年間くらいは大変な人気でした。ここも主力は夷谷座でしたが、夷谷座が映画になってからは京都座に来てたわけです。この淡海劇は昭和になって争議があって主力が出てしまって、その時に今でいうコメディアンの大竹_^保【たもつ】^_フォーリーズが入り込んで、『踊る弥次喜多』とか『ナンセンスレビュー弥次喜多』とかのまげものレビュー、まげものナンセンスをやってたんです。でも水に油でしたからすぐに淡海劇がつぶれて、淡海さん個人が家庭劇に入るということになるわけです。
久保田 そうかといって別に淡海劇が家庭劇の前身ということはないんですね。
伊藤 ええ、もう淡海さんだけです。それから扇雀さん、秀郎さん、珏蔵(後の璃珏)さん、福太郎さんの青年歌舞伎。大変評判がよくて、秀郎さんは背は低いが芸達者な人で、当時京都では_^松喜屋【まつきや】^_の片岡秀郎さんといわれて評判でした。私らも好きでずい分見に行きました。
 夷谷座には林長之助といって盲目の俳優がいたんです。これはそこひですが、きれいな目許をしていて、『朝顔日記』の深雪、『酒屋』のお園などを十八番にしてまして、花道を綱をたよりに出てくる。迫真の演技力で、僕らも熱狂したもんです。吉十郎さんといって、のちに日活初期のスターになった人——この間亡くなった吉十郎さんのお父さんですが——、その人がよく一緒に出てきました。<四〇頁終わり>

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大城立裕「七〇年代以降の沖縄演劇」「現代日本戯曲大系 月報10」(一九九七年九月)

 沖縄の文化史で、一九八〇年代は近代一〇〇年来の画期だと私は解している。一八七九年の琉球処分で、琉球王国から日本へ政治と文化を切り換えたが、その後の一〇〇年年間はおもに文化摩擦に由来する劣等感と戸惑いの時代であったといってよい。その運命的な歴史を脱けて、いま独自の文化的な方法と自信を、ある程度見つけだした、ということである。
 その助走は、一九七〇年代に文学の分野ではじまった。知念正真の戯曲「人類館」(一九七六。岸田戯曲賞)と、又吉栄喜の小説「ジョージが射殺した猪」(一九七七。九州芸術祭文学賞最優秀作)によって、それは果たされた。
 ここですこし沖縄の伝統演劇にふれたほうがよいと思う。古典劇としての組踊が一八世紀に様式を完成したが、それは宮廷芸能で、役者は貴族の子弟であった。琉球処分のあと大方の士族が食い詰めるなかで、もと組踊役者たちはその芸で口を糊することを企てて、巷に降りた。遊廓の近くに小屋掛けをし、そこでヤマトから流れてきた芸能の影響をも受けながら、新しい演劇の方法を模索した。
組踊は古代の言葉をも援用しながらの詩劇で、士族のみを観客にしたから、新しい時代を迎え庶民大衆を観客とする演劇をめざして、現代語の台詞を創るのに苦心惨憺したふしがある。その努力が沖縄芝居という形式を生み、今日すでに伝統となっている。沖縄芝居の時代になり世代が移っても、折々組踊を上演して技法が受け継がれたのは幸いであった。
 沖縄芝居の台詞まわしのなかに韻文の形を残しているのは、興味深い。それはよいが、(おそらくは同じ原因によって)数十年もプロットの脱皮を怠っているうちに、現代の写実精神のなかで生きている観客の鑑嵐に耐える作品が乏しくなった。それでもしぶとく生き延びてきたのは、それはそれとして、文化の生命力というものを思わせる。<一頁終わり>
 新劇運動では、戦後の一九五〇年代に琉球大学の演劇部OBが結成した演劇集団「創造」が目立った。その方向は軍事植民地体制への抵抗を表現することに傾いたが、創作劇を作るには時間がかかり、久しく欧米や日本の既成作品にたよった。
 沖縄新人演劇集団(略称「新集」)も、一九六〇年代の初頭に結成して土着的な創作劇をめざしたが、志を果たすにいたらなかった。
 沖縄芝居は戦火にも滅びることなく戦後いちはやく復興したけれども、現代の生活感覚におくれたために、映画、テレビに手もなく押されて衰えることになった。
 沖縄芝居の様式のなかでも、現代の鑑賞に耐える作品の試みが、かつて無かったわけではない。一九六〇年代初頭に、沖縄テレビ放送がテレビドラマをはじめたときに、拙作「思ゆらば」を皮切りに、幾人かの作家がいくつか出している。しかし、たとえば「思ゆらば」は喜劇だが、演出家も観客も、軍事植民地下の戦後的な被害者意識、悲劇感覚を脱けきっていなかったから、方法が引き継がれることはなかった。
 七〇年代は、二七年間の「異民族支配」のあと「日本復帰」をくぐって、喜劇が理解される時代になった。「人類館」一はタイムリーにそれに応えた。近代沖縄精神史を自己批判の笑いで固めた内容に加えて、台詞にウチナーヤマトグチ(方言訛りの共通語)を多用した、という画期的な新しさがあった。「創造」が製作した創作劇の第一弾である。
 一九八〇年に沖縄ジアンジアンの柿落としに拙作「さらば福州琉球館」を出したときに、沖縄芝居の新しい時代を迎えた。
 一九八二年にNHK沖縄局の復帰10周年記念事業の企画で、私が委嘱をうけ、六〇年代にテレビドラマで出した喜劇「思ゆらば」と「俺は_^筑登之【ちくど】^_」を合体させ舞台劇「世替りや世替りや」に仕立てて上演したのだが、六〇年代と違ってこんどは観客がすなおに喜劇に従いてくるようになった。琉球処分はかって悲劇的にのみ捉えられていたが、それを「復帰」という世替りにかさねて、自己批判の喜劇として見るだけの余裕が育ったようである。
 「人類館」とあわせて、自己を他者の眼で見る喜劇の意識が生まれた証を見ることができる。同時に、沖縄芝居と新劇を意識的に近づける可能性も見えてきた。一九八七年に幸喜良秀の企画で発足した沖縄芝居実験劇場は、沖縄芝居に新劇的内容を盛り込む方法を(多くは拙作を幸喜の演出で)発展させたが、第一回作品「世替りや世替りや」(一九八〇年作品を改訂)が東京で上演されて紀伊國屋<二頁終わり>演劇賞特別賞を受けたのは、方言劇の普遍化の可能性を示唆するところがある。
 方言文化が軍国主義のさなかには卑しめられたが、戦後は誇らしいものになった。が、皮肉にも方言は忘れられる速度をはやめ、観客も年寄りばかりになりそうな気配がある。沖縄芝居実験劇場などの努力で、若者や知識層の観客を育てつつはあるものの、楽観をゆるさない。
 沖縄芝居実験劇場や劇団「演」(代表・島正廣)が沖縄芝居のなかに新劇の方法を採り入れているのと対照的に、知念正真は「人類館」にひきつづき、新劇に沖縄芝居の素材を採り入れてきた。「コザ版どん底」「コザ版ゴドー」などがそれで、沖縄芝居の役者たちが客演で加わり、新劇プロットのなかでウチナーグチ(沖縄方言)をしゃべりまくっている光景は、壮観であった。
 多くの作家にとって、沖縄芝居に新劇的内容を盛り込むより、新劇のなかに沖縄芝居の素材を採り入れるのが容易であるらしく、幾人かが試みている。_^嶋津与志【しまつよし】^_は沖縄戦や戦後風景の表現に力を注ぎ、「ガマ(洞窟)」「アンマーたちの夏」が中央でも評価された。
 その傍で笑築過激団(代表・_^玉城【たまき】^_満)が、ヤングの素人をそろえてコントで始めたのをやがてドラマに昇華させ、ヤング的な新しい方言台詞で新式の沖縄喜劇を創造したのは、ひとつの文化史的な事件であったといってよい。日常的には方言を喋れない世代が方言へのあこがれを造形した苦悶の表現だといえようか。
さらに劇団「大地」(代表・_^照屋【てるや】^_京子)や劇団「衝波」(代表・照屋義彦)などの若い世代が、新劇手法のなかで、テーマや素材にときに「沖縄」を採り入れながら、さまざまな実験を試みている。-沖縄芝居の役者が高齢化していくなか で、幸喜良秀が若手舞踏家のなかから拾いあげている役者は、方言台詞をときには外国語のように修練しつつ努力しているが、全般的に作家、演出家、製作者、役者ともに新人の育ちが鈍いといってよい。
 そのような空気のなかで、国立組踊劇場誘致の運動が進められている。組踊は一九七二年の日本復帰を機に、国の無形文化財に指定されたが、地元の関係者の世論として、「能や文楽については、東京と大阪にそれぞれの国立劇場をもっているのに、これらと日本芸能の三本柱を構成するはずの琉球組踊のための専用劇場がないのは、その発展のために好ましくない」とあって、運動の趣旨に発展した。
 一九九二年にはじめられた地元の運動が、九七年に国の起ちあがりを招いた。<三頁終わり>
 この運動のなかでは、「劇場はプロの組踊役者を育てる場たるべし」ということと、「沖縄芝居公演やアジア全域との芸能交流の場をも兼ねたい」などという主張も述べられていて、めざしているのは伝統の活性化である。一九七〇年代以降には、沖縄演劇が新しい演劇を生みながら、伝統演劇と密接につながりたい、という方向へ向かっていることを思いあわせると、これから10年ほどがきわめて大切な時期だといえるだろう。<四頁終わり>

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前田司郎「愛が挟み撃ち」『文學界』2017年12月号

最初の1/3ぐらいは天才ですね。ほぼ言うことなしです。
そこからはしかし、息切れします。
具体的には、喫茶店の前での交通事故の場面、あそこは嘘くさいです。
そもそも、前田さんの書くことは作り物なのですが、その作り物を作り物と思わせない筆力が持ち味なのに、あそこではその筆力が十分発揮されていない。
セジュウィックが生きていて日本語を解したら、これこそ男同士の絆というだろう主題も、話が進むに従って嘘くさくなる。
最後の一文に至っては白けました。こんなオチを面白がって書いているようじゃ志が低い。

とはいえ、全体としては「良くできている」小説だと思います。それは有吉佐和子や山崎豊子や花登筐の小説がそうである、という意味でwell-madeだと思います。もちろん私はこの人たちの小説を愛しているので、皮肉ではありません。純文学が、作者とどこか根っこで繋がっており、それゆえに切実さを感じさせるものだとしたら、有吉らの小説は作品と作者の間の繋がりを潔く断ち切り、人間観察の鋭さ深さと、自分のでっち上げた作り事についての細部に至る想像力とによって、その作り事を読者に信じ込ませる。

今回、同じような才能を前田さんが持っていることがよくわかりました。以前私が『濡れた太陽』を褒めたのは、それが純文学的切実さを持っていたからですが、それ以前の彼の小説は全て寓話であり、寓話でしかない分、自分のでっち上げた作り事についての細部に至る想像力があれば成立するものでした。今回は(恐らくは本来の持ち味でなかった)切実さを捨てて、もう一度想像力だけで全てを作りあげようとして、しかしそれまでのように寓話の嘘くささに逃げず、「リアリティ」を人間観察の鋭さにおって獲得しようという新たな試みだったのだと思います。

そしてそれはかなり成功していると思います。繰り返しになりますが、最初の1/3は描写のうまさやちょっとした表現の気の利いたところによって、迫真さのある物語になっています。
夫の視点に切り替わるとやや精彩がなくなるのは、女性視点で書く方が得意だ、ってことがあるかもしれませんが(そこは太宰っぽいですね)、多分やる気がなくなったんだと思います。
そこから先は前述の通り、実に惜しい。前田さんは短編小説の方が向いている、とも言えるし、途中で手を抜く悪い癖を直さない限り、長編小説はおろか、今回のような中編小説も書けないという気がします(『濡れた太陽』は最後まで気合が入ってました)。
自分の才能に甘えて無駄遣いしているなあ、という感想は変わりません。あるいは、小説は所詮自分のフィールドではない、という思いがあるからでしょうか。

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Koji Tamaki Premium Symphonic Concert (2015年5月)

Hさん

先ほど聞いてきました。まず、とてもいい席で、大感激です。斜め前には安全地帯のメンバーたちが座っており、休憩時間はひっきりなしにファンが訪れて握手を求めてくるので、そのそばでお地蔵さん状態でしたが(笑)。お師匠さまに日比野が深くお礼を申していたとお伝えください。

玉置浩二の歌は、もちろん大変レベルが高いので、その先の話になるのですが、不満ももち、感心もしました。

最初にお断りしておかなくてはいけないのは、私がベストだと考えている玉置浩二は八〇年代のものだということです。数ある名曲のなかで、私がもっとも好きなのは「キ・ツ・イ」であり、それほどファンの間で人気があるわけではないこの曲が好きだということはとりもなおさず、私が「技巧派」好きで、難易度の高い曲を軽々と歌うときの玉置が好きだということがおわかりだと思います(笑)。

九十年代半ばぐらいから私は玉置の歌を聴かなくなりました。一般的にどう言われているか余り知らないのですが、私の耳には彼は自己模倣をしているだけで、どんどんスケールが小さくなり、つまらなくなっているように聞こえていました。

この十年ぐらいで玉置が「復活」していると感じるようになりました。かつての勢いは失われて戻ってこないけれど、年をとって味が出てきた、という何人かのヴォーカリストにある道筋を辿っているのだろうと漠然と予想していました。

そういう認識のもとで今日のコンサートに行かせていただいたわけです。

今日はベストではなかったはずです。声を張らずにマイクを近づけてささやく(昔でいうところのクルーナー唱法)のときも何ともいえない艶があるのが玉置の昔から変わらない特徴ですが、今日は今一つ艶がありませんでした。

もちろんそれだからといって試合を投げるようなことはしていません。しかし代わりに今日玉置は神経質なまでに自分の声をコントロールしながら歌っていました。もしかするとクラシックのオーケストラをバックに従えるといつもより神経質になる、ということもあるかもしれません。しかし私が好きな、クルーナー唱法から声を張り上げるモードへの「無意識のスイッチ」が今日は殆どありませんでした。スイッチするときは慎重に、計算してスイッチしていました。ノリとか破天荒さのようなものが消えていました。

やはり、玉置の歌は安全地帯のバンドの演奏にもっとも合っている、と感じました。クラシックのオーケストラは自分と同じだけの反射神経の鋭さを持っていない、ということを玉置はわかっており、その鈍さに合わせて自分も鈍くしているように思えました。

その一方で、アンコールで「夏の終わりのハーモニー」を半分アカペラで歌ったことに集約される玉置の率直さに心を打たれました。音響もそういう作り方をしていたと思うのですが、上記で指摘したような年を取ったゆえの「アラ」を、隠すのではなく、ありのまま出してそれを聞いてもらおう、という態度に潔さと自信を感じました。ああ、この人は歌がうまいだけではなく耳がよいだけに、色々悩んでいたのだろうが、もう開き直っているんだな、ということがよくわかる舞台でした。

というわけで、最後は泣いてしまいました。歌のうまさで評価していたはずですが、玉置の歌のうまさは記憶のなかで美化されたものを下回っており、しかしパフォーマーとしての玉置にあらためて惚れた、というところでしょうか。

あと東京文化会館の音はやはり好きではありません。全体に平板に聞こえ、音が溶け合うことも、個々の音が粒立つこともない中途半端な音響のように聞こえます。ひょっとしたらアレンジのせいかな、とも思いましたが(オーケストレーションは可もなく不可もなく、優秀だけど才能はない人のものだな、と感じました)、ブラームスの舞曲を第二部の最初でやったときも平板さは変わらなかったので、やはり会場のせいだと確信しました。

せっかく誘っていただいたのに、否定的言辞ばかり並べ立てているように見えるかもしれません。しかし全体としては大変楽しく、そして(何よりも重要なことに)歌や音響やステージに立つということを再考させてくれる、大変面白いものでした。Hさんに感謝していますし、今後も(できれば)懲りずにこのような機会があればお誘いください。ありがとうございました。

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状況劇場・創世と揺籃――紅テント劇場への道―

「『現代日本戯曲大系』月報6」(一九七一年一一月)

唐十郎

遍歴

昭和三十九年四月 於・新宿日立ホール

「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている

作・唐十郎 演出・骸馬二

終演間近、骸馬二行方不明となる。

昭和三十九年六月 於・厚生年金三階結婚式場

「渦巻きは壁の中をゆく」

作・唐十郎 演出・禿千里

昭和四十年二月 於・俳優座劇場

「錬夢術」

作・唐十郎 演出・禿千里

二月三日、初めての街頭劇、銀座数奇屋橋のプールに一時間浸っていた大久保鷹、凍死寸前、一警官に救出される。代表者、一晩拘留。

昭和四十年六月 於・日立ホール

「腰巻お仙・一部」

作・唐十郎 演出・禿千里

八月、禿千里、某婆と無理心中に及び、急死。

昭和四十年十二月 於・日仏会館ホール

遺恨公演「ジョン・シルバー」

作・唐十郎 演出・堂本正樹

稽古なかば、十一月二十日より十二月二日迄、堂本正樹氏遁走する。が、公演当日、かのスマイルをもって又も姿を見せる。

昭和四十一年五月 於・戸山ハイツ

路頭劇「腰巻お仙・一部」再演

昭和四十一年七月 於・日立ホール

「アリババ」

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、狼藉のチンピラ達と乱闘、観客六十人入り乱れて延々二時間つづく。渋沢

龍彦兄ィ、仲裁にて治まる。

昭和四十一年十月 於・戸山ハイツ灰神楽劇場

路頭劇「腰巻お仙・二部忘却篇」

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、四台のパトカーに監視さる。

昭和四十二年二月 於・新宿MJ喫茶・ビット・イン深夜館

新宿オペラNo.1「時夜無・銀髪風人」

作・唐十郎 演出・村尾国士

昭和四十二年五月 於・草月ホール

「時夜無・銀髪風人——新宿恋しや夜鳴き篇

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、麿赤児の浴びた風呂の水のため、劇場水びたしになる。

昭和四十二年八月於・新宿花園神社

「腰巻お仙――義理人情いろはにほへと篇」

作・演出・唐十郎

八月半ばの公演中、開演十分前より大雨台風に襲われ、観客ともどもテントを高台に移す。

 雨あがりの舗道の水たまりを小指で輪をかいて遊んでいる子供がレース越しのカーテンの向うに見える。子供は水たまりを鏡にして何回も何回も、執拗にくり返して今にも泣きださんばかりなのだが、それはまるで水たまりの自分の顔が歪んでしまうため、分の顔じゃないととまどい思っている風。何時間か時がすぎ子供が再びその水たまりのあった場所に戻った時、すでに水たまりは気ままなお天道様によって蒸発し跡形もない。子供はさっきまでの遊戯の場を踏みこえて行ってしまった。

 犯罪者が、おっかなびっくりそして微かにワクワクしながら犯行現場へと行為の確認に辿り着く如く、かつて芝居を上演した場所――戸山ヶ原のススキヶ原とか崩れ落ちた元駐留軍ブール、新宿花園神社の銀杏の木の下、湯島の白梅天神の太鼓橋の下にゆくと、私の足に口惜しみの河が流れ、苦々しい愛着が訪れるものです。

 私の肉体のそこここに口惜しみの河は流れ、遊戯する子供心にも似ておおらかである。

 昭和三十九年春から秋にかけて、私は上野万年町の物竿し台の見える、蜘蛛の巣張りの部屋のミカン箱の上で「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」「渦巻きは壁の中をゆく」を書いた。その頃私の愛用していたバッグは牛乳配達用の手さげ袋であって、その中にはいつもカレンダーをつなぎあわせた白紙に細い字でびっちりつまった戯曲原稿が入っており、こねくりあげた戯曲の秘法が自転車にゆられてカラカラと舞った。

 東北の米作り婆さんはその日の激しい労働を振りはらう如く夕日をながめて土手に股をこすりつけるというのだが、その頃、メンバーの役者どもは昼間土方仕事をやり、夜は夜でやけっぱちの振りはらい錬金術師であった。

 京の鴨の河原に棲息した河原乞食芸人は、そもそもはエタ・非人の類いであって昼なお暗い橋の下で清い水に流れる鮮血、皮なめしのぶったたく手のしびれ、腰のこりなどを振りはらう如く、白粉口紅ほどこし暗闇に佇むと、道ゆく_¨町の人々¨_はその余りの美しさに目をこらしたということです。

 このような現実原則の日常と痙攣する美しさは役者の肉体の中ではいつも隣り合わせで、役者の顔を並べて見るに泣優、骸優、禿優、渋優、恨優、痴優、心中優、遁優、憤優といった風にどこか病みつきの肉体を持っているものです。

 やけっぱちの錬金術師の寄り集まる稽古場は大学の演劇生から借りた地下室であって、稽古休みの時間に便所に入っていると天井から水入りのバケッとかホウキとが飛びこんだり、その頃_^流行【ハヤ】^_りのリンボーダンスをやったりで、気狂いじみたおおらかな遊戯と真っ昼間の土方仕事への振りはらいは、いつもすれすれのところにあった。

 やけっぱち錬金術師には、自分が驚ろかされる前に他人を驚ろかしてやろうという茶目っ気とその反応への執拗なにじり寄りがあって、台詞を覚えるのに山手線外廻りを七周したり、トイレにはいったきり何時間も出てこなかったり、歯科医院の前に女装してミドリのオバさんとして立ってみたりで、うごめき、澱む町のまっただ中に自らの恥をさらけだし、なお一層病みつき痛んでいた。

 新宿には、その頃、ところどころに申し訳なさそうに空地もあったりしたが、伊勢丹を少し四谷寄りに行ったところに日立レディスクラブホールというショールーム程の小さな劇場があって、五十人も入れば超満員。

 やけっぱち狂躁の錬金術師の日常と客を前にした時の半熟卵状の役者体は暗闇の袖の中に足を残し、舞台に出た顔は笑顔満面。

 時たま、イキの悪いフーテン風客のかけ声に舞台からまっしぐらにかけおり首根っこをとっつかまえてたちまちにしてレディスクラブホールは乱闘の場。乱闘のまっ只中で不動のヨガ行者の如き役者がいたが、彼はその後黙優として登場し、後にアンマとなった。

劇団のメンバーは無名であり、客はいかなる場に於いても常に無名である時、劇表現のもつ荒々しさは、より多くの葬り去られていった無名の者への愛と近親憎悪を相ともなってくる。

 厚生年金で「渦巻きは壁の中をゆく」を演ったのはカーテンシャッター一つ隔てた結婚式場の隣りであった。

白い壁の向うにほこりっぽい道がつづき、

ダリヤの花が咲いて

夏がまわる。

大きなむく犬が吠えると

イチジクの木から子供が散って夜が始まる

そんな遠い町がぽっかり沈んで、ここは、あれ以来雨です雨なんです。

そんな遠い町が昔、ここにあったことは確かなのですが、

今は馬の胃袋のような空から

雨がびじょびじょ

びじょびじょ降ってくる

(「渦巻きは壁の中をゆく」一場ラストより一部)

三十人程の客を前にローソクの炎に照らされた老人が現われた時、すでに隣りの宴会はたけなわ、ビールビンのカチャンカチャンぶつかりあう音、「おめでとう、おめでとう」といい合う嬌声の中を、堕胎児への鎮魂と一組の無名の男女の愛のきしみは進行し、又もや口惜しみの錬金術師どもの振りはらいは、何か目に見えぬものにけしかけられた如き形相を呈する。

 こんな風にして設備の不完全なホールで芝居を演ることがいっも町の中へ町の中へと私をかりたてていたに違いない。

 町の中へ町の中へ、無名の者を優しく染める愛の錬金術師は、相も変わらず無名であった。

 独白

はじめてペンをとったボクの不可能な願いは、偉大なる気狂い女に理解されるような芝居を書きたいということでシタ。

アノ女の偉大さは、その脳漿が夜のみでなく昼間中夢みつづけるというところにアリマス、が、その夢は、悲惨な記憶かも知れない。

無意味なリフレインかもしれマセン。

タダ、アノ女の偉大さはそれにもかかわらず、昼日中、ビルの窓を逆さ斜めに突き抜け、地下鉄のレールに頬をつけて、頭骸骨を砕かれることなく眠りつづけられるということなのデショウ。

夢を追いかけ、夢に追いかけられるアノ女は、夢の破片を自動記述するボクなどより、ずっとヴァイタリティがアルンダ。ボクやアナタタチの想像的感覚のπr2程もアノ女はいつももっているノデス。アノ女は想像のタコなんです。どこかジャンヌ・マリに似たーー

(昭和三十九年四月「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」パンフレットより)

 ロング・ロング・アゴー

不思議な小屋が浅草にある。

僕がその前に立っていたのは、去年の暮れのどん曇りの夕方だった。

映画街から離れ、屋台店の密集したなかに一見、江戸時代の芝居小屋のような構えで、そいつは居た。

入口に三十円の字が見えたので、こりゃ安いとは思ったが、ストリップではなし、エロ映画でもなし、(只、看板の浮世絵の女の腰巻がひっかかる)、思い切って、僕はまっかなのれんをくぐった。そして――鐵人形達が僕の前にズラリと並んだ。片手のない者、性器の腐った者――頭のない物――みんな片輪者である。

客は僕の外に誰もいない。

この群れを通り抜けなければ出口は現われない。

僕は一人の女のざくろのように割れて、熱んだ乳房に、何年もたまりつづけた埃りを拭いていると、その向うの暗がりで誰かが笑った。

木男がそこに居るらしい。あの黒い静かな笑い……。

ここにはお前の死んだ弟もいる。

ここにはお前に凌辱された老母もいる。

ここにはお前の探している’60年の死者もいる。

天井のシートが風にハタハタと鳴った。

――そうか。お前は、こんな衛生博覧会の倉庫のような日本的暗闇で僕を待っていたのか……

僕は乳房の埃りをなおも拭いながら云う。きっと、チョウチン持ちのスメルジャコフも伴れて来ているんだろう。いや、奴は今テンカンで寝ている。さて、お前にはどこを病ませようか。言語中枢不能はどうかな?

結構だね。僕は乳房の埃りを拭いつづけながら云う。舌と耳とはやろう。その代り、僕に目をくれ。ランボーがアフリカで捨てたあの千里眼をー―。

そりゃどうかな?木男の幾条もの手はそろそろ僕を捕えた。

そして今。僕はここで、人形の群れに混り、毎夕、小屋の呼込みをやっている。この芝居の批評もこちらへ送って下さい。(昭和三十九年四月「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」プログラムより)

戸山ヶ原での「腰巻お仙・忘却篇」の上演にたどりつくまで、新宿日立レディスクラブホール、日仏会館、俳優座ホール、はたまた厚生年金の結婚式場の隣りといった風に芝居上演場所を転々としたのですが、いよいよ町の中に明されるべく出かけてゆく時、その町には必ず自警団なる自己閉鎖集団が待ちうけ、私たちの芝居は町から町へとさすらう運命になった。

 当時の「腰巻お仙・忘却篇」の観劇評を堂本正樹は低俗不浄による劇の発見と評しておりますが、芝居進行中、やけっぱち錬金術師共の役者の肉体は寒風に刺され、客はといえばてんでに客どうし酒をくみかわし、芝居終演と同時に役者一同うちそろいて地ベたに土下座の挨拶、またしても役者、観客入りみだれてのまわし飲み、ススキヶ原の月は冴えわたっていた。

 私たちの芝居の行なわれる場は、ゆるやかな日常茶飯事、人々の染まる猥雑なる雑踏の地に、“これより悲しみの地に入る”なる呪語をもって聖地創造におもむく感であった。

 さて、この頃私は西荻の女子大のアパートから阿佐谷天沼の一軒家に移っておりました。

 李礼仙と共に全国を金粉ショーダンサーをして稼いだ金で借りうけたこの一軒家は、ささやかな庭と縁側のある家で、垣根にはさんしょの木とか柿の木とかが植わっており、昼ともなるとどこからともなく集ってくる役者で狭い家の中はごったがえし、近くの子供の遊び場を兼ねた公園で体操やら発声訓練とかやったものです。

 数人の役者が夜の巷をほっつき歩き、日が昇ると稽古場の縁側にたどりつき病んでいる肉体を表現へとおもむかせた。

 新宿西口の飲み屋横丁の焼きとり屋で一杯飲んでいる時、突如入団を申しこんだ全学連上がりの役者は、今や優しきミドリのオバさんに熱中し、稽古二時間前に縁側にたどりつきミドリの上衣、黄色い旗、ズック靴の手入れを入念にやり、薄ピンクのマニキュアを爪にほどこし、オバケツケマツ毛をつけ、彼の表情は、あんなにも優しいミドリのオバさんは女に出来得るはずがないとでもいいたげに偏見で一杯なのである。

 その頃うす汚れた手さげかばんの中にいつも青い表紙の小さなノートに詩をかきっけているヒゲの役者がおりましたが、いつの日か、全学連上がりのミドリのオバサンと手に手をとって雑踏の中で信号待ちをしている姿を見たことがあります。

 未だ上野万年町に高速道路が出来る前のごみごみした町中を二人の男女の老人が、走りゆく車と信号機の前でおろおろしている情景を見たことがありますが、今になってこうした若い二人がおろおろしあうとは彼らにとって一体何事であったのだろう。

 夜ともなればかのヒゲ詩人は、はにかみに満ちて自分の詩を朗読し、ミドリのオバサンは詩吟を口ずさみ、又あるものは泥酔の果て台所の包丁でふすまを切り、又あるものは駅前のオデン屋台に走った。

 各々の役者が、どこからやってきて、どこにいて、何をやろうとしているのかに思いをめぐらす時、他人とかかわる時、江戸の介錯人の如き優しき世話人であろうとするものです。

 技術としてのミドリのオバサンが失敗した時など、化粧、衣裳をほどこした町を走らせ、動物愛護病院前で台詞をいわせたりヒゲ詩人には一ヶ月間便所掃除のみ言いつけたりで、痛みをともなった恥と共に役者同志は成長するようであった。

 それから二回の夏が通りすぎ、キャバレーのショー巡りから帰ってくると、私達は、貧乏生活にたたられてか、絶対に損をしない興行——総予算五千円を元手に、文化長身のド真ん中、戸山ハイツのススキヶ原に向った。

 公園課の課長が幸いに、日曜画家であったため、善意で、その場を貸してくれたのは良かったが、文化長屋の教育委員の差し金で、派出所の警官とかパトカーが四台現われ、近所の児童教育防衛隊までが、石を投げる。その少年の姿が、いつか見た映画のパルチザン少年隊とダブって、私たちには、悲しかった。だが、文化長屋も、夜になると何故か弱かった。時こそ晩秋のススキ原。寒さとテレビ恋しさに、住民は寝床に帰ってゆき、ヘッドライトを消したパトカー四台だけが向うの丘の上で息をひそめている。

 横尾忠則のポスター「腰巻お仙・忘却篇」の夜目にも鮮やかなピンクの桃を頼りに、三十人程の客人が一升ビン片手に、辻から辻と、その風の棲家にたどりつき、それを見定めて、照明隊はペダルをこぐ。照明隊とは、二台の自転車で、そのペダルを思いきりこぐとほのかな電気が、役者の顔をてらす。ヒャラリヒャラリコという効果音楽にしても、電池の小さなテープレコーダーであるために、その音のかぼそさといったら――。横の公衆便所の水の落ちる音にすべてをさらわれるってな具合。だが、丘の向うから_¨ゴザ¨_を小脇にやってくる李礼仙の夜鷹に、「ヤイヤイ! てめェーら!」とどやしつけられる時、三十人の客人は、そこで、初めて、その夜路のルージュの中に、腰巻お仙の初期症状をうすら寒き風と共に見つけたにちがいない。

 卒塔婆の林立する悲しみの地よりムックリ起き上ったゴザを抱えた紅いルージュ、それが腰巻お仙であることは決定論というもの。それ迄の私の作品には影ばかりただようて、なかなか現われなかったその人。

 もう、町の中にとびだしてゆく用意はできた。

 新宿花園神社に目をつけて、何が何でもそこに紅いテントを建てようと狙ってみたのはいいものの、コネがなかなかつかめず(私は、この時程、コネという言葉の怨めしき力を感じたことはなかった)、突然、訪問することにした。すると、社務所には、白髪の老婆と、宮司のお年寄りがお茶を飲んでいて、セールスマンか何かと私を思い込み、上等なお茶を出してくれた。伝説に依れば、二百年前のこの神社では、芝居小屋がかかってそれはそれは大変な江戸文化の衛生ポイントであったらしいですな、とか何とかいってるうちに、すぐにでもそこに建てられそうな話がまとまって、この約束大丈夫かなと思いながら、そのことを仲間に伝えた。

 都市の裏から這いよるべき紅いのテントはそこで注文するや、私は、毎朝、駅前喫茶店の「アランフェス」という店で、毎日一時間(これは八時より九時半。これ以上、そこに居ると、セールスマンの打ち合わせがそこでくりひろげられるために、創作不可能)、その一時間のうちに、埋めるべき原稿用紙のノルマは、四百字詰めで三十枚であった。書きとばす時間が速くて、喫茶店を出てからも、ペンが手のひらの上をすべってゆくこともあった。そして十時半から、劇団のメンバーが集まり、近所に気をつかっての猛稽古。

 二日後、花園神社の社務所から、電話が、三百米離れた雑貨屋に入った。かけつけてハイハイというや、案の定、総代会が、疑っているから、あの約束は駄目にするという。あっ、こういうことを懸念していたのだ。駄目ですか、じゃ又会う日迄と電話を切るわけにもゆかず、一寸待って下さいな、御老体。すぐ、そちらへ行って、我らの演劇がいかに、御老体をも魅きつけずにはおかないかということをお見せしますから、結論を急がないで下さいと私はいった。そこで、今、すぐ総代会に見せるわけにはゆかんから、一週間後に、神社のビルの二階にあるホールで披露されたしということになり、まだ出来上っていない「腰巻お仙・義理人情いろはにほへと篇」を、腰巻では元も子もなくすだろうといぶかって、月笛お仙という名に一応なおして、ネクタイしめて(メンバーの中には、この時、生れて初めてネクタイをつけた者が大部分であったらしい)、神社ホールにかけつけた。だが、ホールに入って、ドーラン塗りたくったはいいものの、来ているべき総代会の老体は、一人も居らず、私が、初めてここの社務所に話を持っていった時のあの宮司とお婆さんにその子供たちが、まるでバザーの余興でも観るつもりで、待っていた。「総代会の人たちは?」と私が宮司に聞くと、「おそいね」としか彼はいわぬし、コンニャク談義ではラチが明かぬ。いくら、ここで、「腰巻お仙」を、この場限りに上品に捏造してみたところで、くたびれもうけではないか。

 こんな私の心配をよそに、待ちくたびれた役者群は、喜々として「腰巻お仙」上品版を演じはじめた。だが、いつもは、このホール、お花の会とか、着物の展示会につかわれる素寒貧な空間。もともと、テントの中で演じられるべき「腰巻お仙」には、いかにも窮屈で、いくら荒事をやってのけても、只、無暗やたらに暴れているだけ。観劇の婦女子や老人は、顔を見合わせ、白け返って、お茶でも飲みましょうか、お爺さんというのであった。結局、誰も居なくなり、私は、まだ暴れている役者群に「もう、いいよ」といった。

 果してどうなることか。ドーランのまだ落し忘れている顔が、再びネクタイを締め、何卒よろしく、と社務所に伺いを立ててから、電車に乗って帰ったのは、まだ真昼間。一体、出来るのだろうか出来ないのではといった不安が、何日もつづいて、出来ないことはない。許可されなくとも、紅いテントをおっ立ててしまおうと思いつめて一週間。もう夏に入り込んでいた。社務所に電話をかけて「総代会は何といってました?」と聞きただすと、宮司は「何のこってす?」というのである。

 これ程、雲をつかむような詮索は無意味と、もう電話をすることもなく、真夏の新宿公演に向った。風が吹き荒れ、埃りが舞って、紅いの肌がひるがえると、私は、そこに演劇を始めてから、やっと一つ手に入れることの出来た様式の何たるかを知った。私は今迄何者でもなかった。これからは、この紅い化け物を盾に、否、この紅い生き物に肉化した無名の私として町を征こう。

(状況劇場主宰)

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東宝第二演劇部はいつ廃止されたか?

西堂行人『[証言]日本のアングラ 演劇革命の旗手たち』は、佐藤信(劇作家・演出家・俳優座養成所第十四期・一九六五年卒)の発言として以下のように記録している。

N——俳優座養成所に三年間いて、卒業した時にどういう方向を考えていましたか。劇団を創ろうということは?

佐藤——まず、卒業する一年前に行こうと思っていた東宝第二演劇部というのがなくなってしまった。(東宝には)第一演劇部と第二演劇部があって、第一は芝居、第二は日劇のレビューやミュージック・ホールの演出をやる。僕はその第二演劇部に行くものだと将来の目標をしっかりと決めていた。でも、なくなっちゃったんです。……それで観世栄夫さんに「俺、行くとこないんですけど」って言ったら、「それじゃあ青芸に来る?」「じゃあ行きます」って。

『[証言]日本のアングラ 演劇革命の旗手たち』(二〇一五年、作品社)一一八—一一九頁

しかしこれは正しくない。佐藤が俳優養成所を卒業した前年だと、一九六四年ということになるが、以下に示すように、一九五八年に設立された東宝第二演劇部が廃止されたのは一九六九年である。

昭和33年1958

東宝演芸場、OSミュージックホールなどを所管)に分割。本社に劇場部を新設。関西支社の部制を廃止。

4月4日 本社総務部より人事部を独立。本社経理部より管財部を独立。演劇を第一演劇(東京宝塚劇場、芸術座を所管)と第二演劇(日本劇場第2劇場、NDT、

昭和44年1969

3月1日 文芸部を廃止、「製作総務室」「映画企画部」を新設。演劇部の第一演劇企画課、第一演劇制作課、第二演劇企画制作課、第二演劇演芸課を廃止、「制作室」「企画課」「制作課」「東宝現代劇」を新設。「財務部」を新設。調査室を廃止、「情報調査室」を新設。管財部を廃止、「不動産経営部」を新設。映画興行業務部を「映画興行部」と改称。事業・開発部を「事業部」(現・映像事業部)と改称。東宝会館、日劇会館を廃止。

『東宝75年のあゆみ ビジュアルで綴る3/4世紀』編纂委員会・東宝株式会社総務部『東宝75年のあゆみ 1932-2007 資料編』(東宝、二〇一〇年)

佐藤は一九七四年三月二日〜四月二十三日日劇ミュージックホール『春に舞う妖精たち』を演出したが、その際インタビューアー岬圭一に答えて、以下のように答えたことが上演パンフレットに掲載されている。

佐藤信 卒業の時、東宝に入ろうか青芸に入ろうか迷いました。

——東宝は、どの劇場ですか?

佐藤信 第二演劇部ですから日劇ミュージックホール、あるいは日劇です。でも東宝は会社員になることでしょ。ネクタイいやでね、そこで青芸の研究生になりました。

インタビューアー岬圭一「佐藤信 大いに語る」日劇ミュージックホール『春に舞う妖精たち』上演パンフレット

聞き書きの相手が誤って記憶していることはよくあることなので、それを訂正できなかったのは取材者である西堂の落ち度だ。

西堂は佐藤の発言を聞いて、日劇ミュージックホール『春に舞う妖精たち』上演パンフレットにあたるべきだったか? もちろんそんなことはない。けれども第二演劇部がなくなっても日劇やミュージック・ホールのレヴューがなくなったわけではないのだから、青芸を選んだ理由としてはおかしい、というごく単純な推論ができなかったのは批判されるべきである。

なお『東宝五十年史』には「一九五八年四月四日付の職制改革によって演劇部は第一演劇部と第二演劇部に分割された」(四七一頁)とある。また「演劇部を第一演劇(東京宝塚劇場、芸術座を所管)と第二演劇(日本劇場、日劇ミュージックホール、日劇ダンシングチーム、東宝演芸場、OSミュージックホール等を所管)とに区分したことであった」(二一九頁)という記述もある。おそらく同年二月に日本劇場で第一回ウェスタンカーニバルが開幕し大ヒットしたこともあって、演劇部の業務が増え、「演劇」と「芸能」の制作を切り離すという判断がなされたのだろう。

これもまた、知る必要はないことだ。だが、一九六六年九月に新しい帝国劇場の開場を控えていた東宝が、一九六四年時点で演劇部を再統合するには余程の理由がないといけない、ということも思い至るべきではなかったか。

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