Hさん
先ほど聞いてきました。まず、とてもいい席で、大感激です。斜め前には安全地帯のメンバーたちが座っており、休憩時間はひっきりなしにファンが訪れて握手を求めてくるので、そのそばでお地蔵さん状態でしたが(笑)。お師匠さまに日比野が深くお礼を申していたとお伝えください。
玉置浩二の歌は、もちろん大変レベルが高いので、その先の話になるのですが、不満ももち、感心もしました。
最初にお断りしておかなくてはいけないのは、私がベストだと考えている玉置浩二は八〇年代のものだということです。数ある名曲のなかで、私がもっとも好きなのは「キ・ツ・イ」であり、それほどファンの間で人気があるわけではないこの曲が好きだということはとりもなおさず、私が「技巧派」好きで、難易度の高い曲を軽々と歌うときの玉置が好きだということがおわかりだと思います(笑)。
九十年代半ばぐらいから私は玉置の歌を聴かなくなりました。一般的にどう言われているか余り知らないのですが、私の耳には彼は自己模倣をしているだけで、どんどんスケールが小さくなり、つまらなくなっているように聞こえていました。
この十年ぐらいで玉置が「復活」していると感じるようになりました。かつての勢いは失われて戻ってこないけれど、年をとって味が出てきた、という何人かのヴォーカリストにある道筋を辿っているのだろうと漠然と予想していました。
そういう認識のもとで今日のコンサートに行かせていただいたわけです。
今日はベストではなかったはずです。声を張らずにマイクを近づけてささやく(昔でいうところのクルーナー唱法)のときも何ともいえない艶があるのが玉置の昔から変わらない特徴ですが、今日は今一つ艶がありませんでした。
もちろんそれだからといって試合を投げるようなことはしていません。しかし代わりに今日玉置は神経質なまでに自分の声をコントロールしながら歌っていました。もしかするとクラシックのオーケストラをバックに従えるといつもより神経質になる、ということもあるかもしれません。しかし私が好きな、クルーナー唱法から声を張り上げるモードへの「無意識のスイッチ」が今日は殆どありませんでした。スイッチするときは慎重に、計算してスイッチしていました。ノリとか破天荒さのようなものが消えていました。
やはり、玉置の歌は安全地帯のバンドの演奏にもっとも合っている、と感じました。クラシックのオーケストラは自分と同じだけの反射神経の鋭さを持っていない、ということを玉置はわかっており、その鈍さに合わせて自分も鈍くしているように思えました。
その一方で、アンコールで「夏の終わりのハーモニー」を半分アカペラで歌ったことに集約される玉置の率直さに心を打たれました。音響もそういう作り方をしていたと思うのですが、上記で指摘したような年を取ったゆえの「アラ」を、隠すのではなく、ありのまま出してそれを聞いてもらおう、という態度に潔さと自信を感じました。ああ、この人は歌がうまいだけではなく耳がよいだけに、色々悩んでいたのだろうが、もう開き直っているんだな、ということがよくわかる舞台でした。
というわけで、最後は泣いてしまいました。歌のうまさで評価していたはずですが、玉置の歌のうまさは記憶のなかで美化されたものを下回っており、しかしパフォーマーとしての玉置にあらためて惚れた、というところでしょうか。
あと東京文化会館の音はやはり好きではありません。全体に平板に聞こえ、音が溶け合うことも、個々の音が粒立つこともない中途半端な音響のように聞こえます。ひょっとしたらアレンジのせいかな、とも思いましたが(オーケストレーションは可もなく不可もなく、優秀だけど才能はない人のものだな、と感じました)、ブラームスの舞曲を第二部の最初でやったときも平板さは変わらなかったので、やはり会場のせいだと確信しました。
せっかく誘っていただいたのに、否定的言辞ばかり並べ立てているように見えるかもしれません。しかし全体としては大変楽しく、そして(何よりも重要なことに)歌や音響やステージに立つということを再考させてくれる、大変面白いものでした。Hさんに感謝していますし、今後も(できれば)懲りずにこのような機会があればお誘いください。ありがとうございました。
前田司郎「愛が挟み撃ち」『文學界』2017年12月号
最初の1/3ぐらいは天才ですね。ほぼ言うことなしです。
そこからはしかし、息切れします。
具体的には、喫茶店の前での交通事故の場面、あそこは嘘くさいです。
そもそも、前田さんの書くことは作り物なのですが、その作り物を作り物と思わせない筆力が持ち味なのに、あそこではその筆力が十分発揮されていない。
セジュウィックが生きていて日本語を解したら、これこそ男同士の絆というだろう主題も、話が進むに従って嘘くさくなる。
最後の一文に至っては白けました。こんなオチを面白がって書いているようじゃ志が低い。
とはいえ、全体としては「良くできている」小説だと思います。それは有吉佐和子や山崎豊子や花登筐の小説がそうである、という意味でwell-madeだと思います。もちろん私はこの人たちの小説を愛しているので、皮肉ではありません。純文学が、作者とどこか根っこで繋がっており、それゆえに切実さを感じさせるものだとしたら、有吉らの小説は作品と作者の間の繋がりを潔く断ち切り、人間観察の鋭さ深さと、自分のでっち上げた作り事についての細部に至る想像力とによって、その作り事を読者に信じ込ませる。
今回、同じような才能を前田さんが持っていることがよくわかりました。以前私が『濡れた太陽』を褒めたのは、それが純文学的切実さを持っていたからですが、それ以前の彼の小説は全て寓話であり、寓話でしかない分、自分のでっち上げた作り事についての細部に至る想像力があれば成立するものでした。今回は(恐らくは本来の持ち味でなかった)切実さを捨てて、もう一度想像力だけで全てを作りあげようとして、しかしそれまでのように寓話の嘘くささに逃げず、「リアリティ」を人間観察の鋭さにおって獲得しようという新たな試みだったのだと思います。
そしてそれはかなり成功していると思います。繰り返しになりますが、最初の1/3は描写のうまさやちょっとした表現の気の利いたところによって、迫真さのある物語になっています。
夫の視点に切り替わるとやや精彩がなくなるのは、女性視点で書く方が得意だ、ってことがあるかもしれませんが(そこは太宰っぽいですね)、多分やる気がなくなったんだと思います。
そこから先は前述の通り、実に惜しい。前田さんは短編小説の方が向いている、とも言えるし、途中で手を抜く悪い癖を直さない限り、長編小説はおろか、今回のような中編小説も書けないという気がします(『濡れた太陽』は最後まで気合が入ってました)。
自分の才能に甘えて無駄遣いしているなあ、という感想は変わりません。あるいは、小説は所詮自分のフィールドではない、という思いがあるからでしょうか。